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日銀の買い上げが話題。90年代にバブルを人為的に起こして崩壊させたのも日銀だった?驚くべきその理由背景を語るドキュメンタリー「円の支配者」

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 最近、日銀がイオンを始めとする上場した日本企業の株式の4割を買い上げた・・・ほぼ国有化じゃん!・・と話題になっております。

 このことについては後に調べようと思いますが、こうしたニュースで真っ先に思い出したのが、このドキュメンタリー。

「Princeses of YEN」です。

 あくまで真面目なドキュメンタリーですが非常に衝撃的な内容が含まれています。

 なんと、90年代に日本でバブルを作り出し、そして崩壊させたのは、日本銀行だったという内容です。しかしその理由は何だったのか??

 このドキュメンタリーはリチャード・ヴェルナー「円の支配者」を基にしていて、この本はベストセラーにもなっているので、知っている人は知っているかもしれません。

 

 しかし無知だった私には、かなり驚きでした。本はこれです。

円の支配者 - 誰が日本経済を崩壊させたのか

円の支配者 - 誰が日本経済を崩壊させたのか

  • 作者:リチャード A ヴェルナー
  • 出版社:草思社
  • 発売日: 2001-05-08

 

 著者のヴェルナーは、現在サウサンプトン大学の経済学教授でエコノミスト。

日本に滞在中は、日本銀行の研究所や財務省の金融研究所で客員研究員もしていました。オックスフォード大学で博士修了しています。

 

そして、この本の内容を、コンパクトにまとめ、アジア通貨危機や現在のヨーロッパの中央銀行についても言及しているのがこのドキュメンタリー。

 


Princes of the Yen: Central Bank Truth Documentary 『円の支配者』

 

全編英語ですが、字幕つけられるのでリスニング勉強にはいいですよ☆

というか、内容が必見過ぎます!!

ここで描かれている構造改革の発端は、現在の貧富の差が進みまくり、水道民営化まで行われつつあり、まさに良くない方向にアメリカナイズがどんどん進む、今の日本と直結しています。

 

しかし、お時間のない方のために、以下に、ざっとあらましを書いておきました。訳が変なとこはご勘弁ください。

 

Princes of the Yen 概要

 

戦後日本の金融

 

戦後すぐ、日本の銀行が保有していたのは戦争債権とローンだった。

なので、銀行部門は実質的に、ぜんぶ破産状態になる。

だが、日本銀行がこの問題を簡単に解決。

銀行の不良債権を、新しく創造した蓄えで買い取ったのである。そうやって彼らに資金を供給した。

戦後の日銀総裁はGHQによって指定された。

最初はあらきえいきち、戦争犯罪者として告発されたため辞任、だが1951年に恩赦があり、あらきはアメリカの日本大使館で大使として任命された。そして1954年から再び、日銀総裁の地位につく。

 尚、1951年の恩赦の時には、戦時中の官僚達が、そっくりそのまま戦後の政府に戻っている。特高警察からは、なんと文部科学省に移っているのが皮肉。

 

 社会主義が日本に浸透するのを恐れて、アメリカは、日本の大地主の土地を、農民など、今までその土地を借りていたものに分配した。財閥解体も行われた。

 

1957年、元A級戦犯だった岸信介が首相になる。東条英機のもとで通産大臣をしていた。Munitionsから奴隷労働まで責任があった。戦時中は自分を国家社会主義者と自認していた。暴力団と、経済界と、CIAに提供された資金を使って自由民主党の力を強大なものにした。経済界、政界のリーダーは、日本を戦争へと押しやった張本人である、戦時中の官僚達であった。

 

戦争経済システム

 大蔵省は省庁の中でも一番強かったが、信用創造と、その分配については日本銀行独占の仕事である。「金利を通じて、金融政策を行う」けれど、お金の量のコントロールは日銀による。

 このコントロールは「窓口指導」によって行われた。債権の量と、割当を、一般銀行に日本銀行が指導するシステム。次の四半期に、幾ら民間企業などに貸し付けを行うべきか、そして、どの産業部門に貸し付けるべきかも指示した。貸し付けるべきローンは、様々な産業部門と、それぞれの下位部門にまで指定されていて、大口の貸付先企業は名指しされていた。

 なので、日銀はどの産業部門に投資すべきか、投資すべきじゃないかを決めていた。

 

実際これは、戦争中の経済システムが、消費者向け商品の生産へと適用されたものだ。

この政策はうまくいき、日本国民は豊かになる。平等な収入、生活水準の改善。1959年だけでも17パーセントの成長を達成。

 戦争経済の余波で、全産業部門は、利益のために競争するのでなく、マーケットシェアの拡大を目指して競争していた。破産するまで競争する過剰競争。

 この解決のため、公のあるいは、暗黙のカルテルが行われるようになった。

「窓口指導」は、カルテルをコントロールするメカニズムとして機能する。

銀行が貸し出すローンの数と金額を指示できたので。そんなわけで、銀行ランキングも大合併時代まで変わらなかったのだった。

 「窓口指導がなかったら我々は自滅するまで過熱競争してたでしょう」ととある銀行職員の証言。

 

戦争経済と国際取引

 

アメリカ貿易赤字増大。日本国内では、過熱競争が実質上のカルテルによって抑制されていたが、国際競争の場面では、そんなものは存在していない。日本企業は多くの部門で世界市場のトップへ躍り出た。

 アメリカ議会では聴講会が開かれる。「日本の生産性から学ぶ」

日本は世界で二番目の経済大国になった。自由競争という市場原理によってではなく、戦時中のシステムを受け継いだ、政府によってコントロールされたシステムによって。

「日銀は、注目を集めない方がいい。田舎の神社の森みたいに、ひっそりし続けるのがいい」(18代日銀総裁 いちまだひさと)

 

 日銀は自由市場の支持者という名目だったので「窓口指導」というのは、人々を当惑させるコンセプトであったのだ。なので、このこのについて言及しはた資料は少ないし、その役割を実際よりも小さいものにみせる書き方をしていた。

 財務大臣が日銀に何か聞くたび、日銀の職員は、難解なディスカッションに持ち込む。やたらと専門用語にあふれていて、専門家以外には、把握しがたいプロセスに見せるため。

 1965年11月、日本国債がはじめて市場に売りに出される。

政治家は、支出を増やしたい場合、もう日銀をけしかけるのではなく、大蔵省にプレッシャーをかけれるようになった。そして大蔵省が、どんどん増えていく国の借金を監督するようになる。

 

日銀が構造改革の必要を訴える

 

 1980年は規制緩和が始まった時代だ。多くの国が、資本移動に対する規制を緩和した。日本では佐々木正(元日銀総裁)が日本経済を改革し、自由化するための五年計画を呼びかける。

 1986年「経済構造改革委員会」(前川はるおが筆頭)10年に及ぶ経済改革プランを提案する。西洋の生活水準に日本も匹敵させるためだという。

「経済統制を用いた伝統的な経済政策を変える。この経済政策を変えないと、日本はこれ以上発展しない」というもの。

 このレポートは、アメリカ側の経済政策担当たちの希望を反映したもののように読める。

行政改革、官僚権力の廃棄、目標は政体全体の改造だった。

戦争経済システムの廃棄、そしてアメリカ式の自由市場システムの導入。

 

 委員会の中でも、この方向転換に反対の声を挙げたものはいたが、彼らは解任されてしまった。この計画の過激さは各方面も気づいた。日本の経済、政治、社会システムを抜本的に変えてしまう性質を持っていたからだ。

 レポートは改革の必要性を訴えつつ、それをどうやって達成するかについては、奇妙なほどに沈黙していた。

 「金融政策、通貨政策は、この改革に大きく寄与するべき」という、かすかにヒントは与えられているものの。

 経済危機を起こすことが、社会構造を抜本から変える方策である。

 どの部門も、既得権益を持っているので、現在の体制を変えたがらない。何か危機的出来事に直面しないで社会システムを抜本的に変えた国など歴史上ないだろう。

 経済危機は、国民や既得権益集団に、構造改革の必要性について賛成させるチャンスなのだ。

 それでは危機を起こすのにいい方法は?

・・・バブルを起こすことだ。誰もこれには反対しない。

 

日銀は、窓口指導において、貸付額をいちじるしく増やした。1980年代後半には平均して前年比15パーセントも年間貸付額を増やした。

 日銀は、銀行担当者に、もっとローンを増やせといっていた。

 当時は年収300万くらいの若者にも銀行がどんどんお金を貸してくれたという。

若いのにマンション複数持っていたり

 不動産バブル、株式バブルが起こる。1985年から1989年までに株は240%も上昇。

地下も245%上昇した。

 エコノミストは土地が日本では少ないことを理由にあげていたが・・。

人手不足も深刻に。会社は就職してくれる人を誘うためリゾート旅行をプレゼントしたりした。政治家も大蔵省も喜んだ。税収は増えた。

 製造業者さえ、誘惑に抗えず、株式取引に手を出す。いわゆる財テクというやつ。

お金を借り入れて、不動産や株式投資を行った。

 日産なんかも、自動車製造よりも投資事業から、もっと儲けていたくらいである。

 

 バブルは日本経済の奇跡ということで喧伝され、日本企業の効率性や生産性が理由として挙げられた。

 だが実際のところ、日本経済の好調は、会社のマネジメントテクニックとは、あまり関係なかったのだ。

 バブルの陰には「窓口指導」があった。以前には経済部門のバランスをとるために使われていた「窓口指導」がいまや、巨大なバブルを作るために行われていた。

 日銀は、非公式に「窓口指導」をつづけていたのである。

「もしリスクの低い借り手がみつからなくて、でも日銀からの貸し付け額割当を達成しようと思ったら、当然リスクは高まる方向へ行く」と当時の銀行職員の証言。

 

 多くのバブルと同じように、日本のバブルも、新しいお金を急激にたくさん作り出すことによって作り出されていたのだ。

 1986年から1989年、福井俊彦が日銀のバンキング部門の長だった。

「貸付が急速に拡大していますが、そろそろ銀行貸し付けの拡大を止める気はないんですか?」とインタビューされ

「金融緩和政策は一貫して行われているため、この状況で銀行貸し付けの量を規制するのは、自己矛盾してしまうでしょう。だからお金おの流通量を縮小することは考えていません。構造的な調整が長くかかって行われれば、国際的な不釣り合いも正されるでしょう。金融政策はこれに寄与する必要がある。日銀は金融緩和政策を続行する責任がある。だから銀行貸し付けが拡大するのは自然です」と答えている。

 一般銀行は、日銀から貸し付け拡大を指示されていたのである。

 通常、銀行は多数の申請者の中から誰に貸し付けるかを選択する。その過程でかなりの割合の申請者には貸さない。

 だが1987年から事態は変わった。お金を借りてくれる人を探し回るようになったのは銀行の方なのだ。この時期、銀行が、金利を安くして、どんなふうにお金を借りてくれと人々に迫ったかについては色々語られているところだ。

 銀行は土地の値段を過大評価して、貸し出せる額を数倍に増やした。

 

 ある国が過剰にお金を刷ると、その一部は海外へと流れることになる。ロックフェラーセンターや美術品などを日本が買い漁る。アメリカのtreasury bond 75%を日本が購入した。

 国際金融ディーラーは、日本が過剰にお金を作り出していることについては注視しなかったので、日本円の額を高値で評価したままだった。だから国際的に円安になったりもしなかった。アメリカが昔使った手を日本も使っていた。

貿易黒字でごまかせた。

非GDPベースローン。

。。。商品やサービスの生産に使われないローン。この比率が急激に上がった。これは英米で住宅ローンや住宅価格高騰したのと同じ

 銀行が株式価格を与えられたものとして見なし、お金を創造した。そこでお金が流入し株式は高騰した。銀行は、株式価格の一部をcolatteralとみなしたので安全として扱った。だが銀行がいっせいに同じ行動をしたので、市場価格はどんどんあがった。

 26代目日銀総裁やすしみえのは1989年に、今までの金融緩和政策は土地価格高騰を引き起こしているので不動産関係の貸し付けは今後規制されるべきと発言。

 彼は、メディアではヒーローとして扱われた。馬鹿げた金融緩和政策に反対したヒーローとして。

 だが事実としては、彼はバブル期の副総裁だったのだ。そしてバブルを作り出す任務を担っていたのだった。

 

 この結果突然、土地や資産の価格は上昇を止めた。1990年だけでも株式価格は32パーセント下落。1991年には、「窓口指導」が廃止された。この方策には、当の日銀職員も驚いた。銀行職員も困り果てた。指導なしで、どうやって貸し付け計画を立てればいいのか分からなかったのだ。それまでは窓口指導の割当額が消化されたら、貸し付けを断ればよかったのだが。銀行が、バブル期の貸付額99trillion円がsourしそうだと気づくと、銀行は怖くなり、投資家やその他すべての人々に貸し渋るようになった。

 バブル崩壊。500万人以上が解雇され、失業状態に。壮年男性の自殺が増えた。

1990年から2003年までに21万社以上が破産、株式市場も80%下落。土地価格も84%下落。

 日銀総裁三重のは、「この景気後退のおかげで、誰もが経済改革の必要性に目覚めた」と発言する。

 

 財務大臣は、利子率をコントロールするのが効果的な金融政策だとして、0.1%まで利率を下げるよう日銀に迫った。多くの経済学者が景気回復を予測。

1ドルが100円以下じゃないと日本の輸出企業の多くが利益を出せないからと、日本企業は円安にするよう求めた。

 財務大臣は日銀に、日本円を大量に売って米ドルをこ買うよう要請した。しかし日銀は無視。「この構造改革は、短期的にはデフレを起こすかもしれないが、その後で、日本経済をもっと効率的にする。」と主張していた。

 在野の専門家は、政府支出により国内需要を高めるべきといった。10年間ほど、政府はこのアドバイスに従った。政府の借金を史上最大級に増やして。2002年までに10個の景気刺激策が行われ総額は146illionに達した。だがこれは政府がお金を市場に入れるのと同じ額だけ、そこから引き出すようなもので効果はなかった。

 2011年までには、借金は世界でも最大のGDPの230%にまで達する。

専門家は、景気後退は日本の経済システムに原因があると主張を始める。

 

 日銀はお金を新たに刷って、銀行の不良債権を額面価格で買い取るという救出策も取れた。第二次世界大戦後にしたように。

 またリスクのない借り手を銀行に紹介したり、会計基準を変えることも手だった。

税金の払い手である国民の金が使われるべきなのか議論がされた。結局、税金を使って銀行に資金が投入され、負債を消化。

 お金の量は信用創造における、純粋な貨幣量増加に左右される。だから税金を使わずとも、日銀が民間企業から資産を、新しく刷った金を使って買えばいいのだ。不動産を購入し、それを公園にする手もある。

 また量的緩和を行う手もある。だが、日銀は、経済危機を救ったかもしれない、こうした手を用いることを拒絶した。、

だが日銀は、構造改革をおこなうために景気後退を長引かせたのではないか。

日銀は、お金を新しく刷れという財務大臣や首相の声を無視しつづけた。

 それどころか市場に回るお金の量を減らすことまでしていた。金融緩和は、構造改革を遅らせると主張していた。

 日本の経済学者の大半は、アメリカ式の経済学を学ぶために、アメリカで博士やMBAを取った。

 ネオクラシカルな経済学では、自由市場がすべてだった。

 

 アメリカは旧体制(大蔵省、大きな保険会社など)を崩すよう日本に迫り、でなければ制裁を課すとした。

 規制緩和のためには、大蔵省の力を弱める必要があった。

 1990年中盤には、大蔵省が景気後退をもたらしたのではないかと一般人は疑惑を持つようになった。大蔵省と銀行の癒着が問題になり、逮捕者も出た。

 白川まさきは、「すでに、関連するすべての経済組織に、利権集団がいるために、構造改革を推進するのは簡単ではない。

 一方、日銀副総裁の山口豊は「日銀は大きなジレンマに直面している。金融緩和は直近のリスクを減らすものの、最終的な解決を遅らせてしまう。

 1990年から政府は大蔵省の力を弱める政策を始めた。そのかわりに日銀の影響力は著しく高まった。

 

 三重野は日銀総裁職を辞してから、大蔵省が日銀に間違った政策を取らせたと、暗にほのめかすような講演活動をして回った。このため日銀は法的に完璧に独立した存在になるべきだと。

 

政治システムの改革

 

昔の政治体制では政治家は、違う公約をかがけて差別化するのではなく、政策は官僚によって作成されていた。そして政治家は主に、公共事業を呼び込むなどして、自分の地盤の要求に応えていたのだった。

 1997年に戦後はじめて、景気刺激策が政治家主導で行われた。2001年の始めにはニュータイプの政治家が総理大臣になった。小泉純一郎である。

「構造改革なくして景気回復なし」がスローガンだった。小泉総理はジェノバサミットで「もし経済が先に回復したら、構造改革しようとする意志は消えてしまうだろう。なので構造改革なくして、成長なし、という方向へ進む」と発言。

 このスローガンはテレビなどで散々放送された。

 

 日本はアメリカ式の市場経済へと移行を始める。銀行から株式市場が経済の中心となる。そういうわけで、預金のペイオフ解禁と、株への税金軽減により、株式への誘導がが行われた。

 失業率は著しく上昇。貧富の差や、暴力犯罪も増加。

 日銀は銀行のバランスシートを悪化させ、銀行に、債務者に対して担保権を行使するよう指示した。日銀は、銀行に公的資金を注入することで、それらを国有化してコントロール化におき、民間企業からローンを取り立てさせ、多くの企業を破産に追い込もうとした。時の財務大臣、柳沢はこれに反対したが、首相からクビにさせられた。

 そして、後任になったのが竹中平蔵である。

 竹中は、日銀のプラン(債務者の担保財産を取り上げる)の支持者だった。

 竹中は、銀行のバランスシートを弱体化させることで国有化を進めた。

日銀職員の木村たけしも、会計方法の変換を要請。このことでバランスシートはますます弱くなり、国有化が進めやすくなる。

 森永卓郎は、この政策は日本に利益がなく、アメリカのハゲタカ・ファンドを利するものだと批判。

  20万件を超える破産があったものの、ハゲタカ・ファンドが買う旨味があるほどの大きな会社はなかったため困窮していたところだ。

 証券会社ゴールドマンサックスは、不良資産の民間移譲を支持。

 代々の日銀総裁 福井、三重野、前川は「構造改革のために規制緩和」と公の場でさんざん発言してきた。そして経済危機を人為的に引き起こした。

 

 「高成長モデルを破壊し、新しい時代に適した新しいモデルを導入する」と福井は日銀総裁になった時発言している。

 大蔵省を弱体化し、日銀はそこから独立した力を手に入れた。日銀に関する法律も変えた。

 製造業からサービス業へと重点をシフトさせ、規制緩和し、自由化、民営化し、経済構造を変えた。日銀はその目標を全般的に達成したのであった。

 

1920年代には、日本の経済は現代のアメリカに似ていた。雇用と解雇がめまぐるしく行われ、企業同士の競争は激しく、官僚によるコントロールは少なく、株主は配当を求めて会社にあれこれ要求していた。そして会社は銀行からでなく市場から資金調達していた。

 しかし戦後は、日本の経済システムはこれとは正反対になった。カルテルが競争を制限し、高度に統制されていた。銀行による資金調達、株式持ち合い、そして株主の力も今より弱かった。会社の買収も少なく、労働市場の流動性は低かった。年功序列賃金と終身雇用制度が一般的だった。

 景気後退を終わらせ、経済効率性を上げるには、日本は、福祉型資本主義から、株主型資本主義へと変わらねばならないと主張された。

 しかし疑問が残る。

 なぜ一貫して著しく、貿易黒字を上げていた国が、「より競争力を高めるために」その経済システムを変えなければいけなかったのか??

 

アジア通貨危機

 

 1997年には東南アジアの新興国の通貨がドルとの固定相場を保てなくなり、一年間で6~8割ほど暴落した。この暴落の原因は、1993年まで遡る。

 韓国、タイ、インドネシアは、株式勘定を抜本的に規制緩和したのであった。そして国際的な銀行機関が設立された。金融部門が海外から自由にお金を借りれることになったのだった。戦後初のことだった。

 しかし実際のところ、これらのアジアの経済強国にはそんな必要はなかった。国内投資に必要な金は、自国で信用創造すればよかったのである。実際、資本の流れを自由化しろというプレッシャーは海外から来ていたのだった。

 1990年代始めから、国際通貨基金(IMF)とアメリカ財務省は、これらの国でロビー活動を行っていた。国内企業が外国から資金調達できるように。

 自由市場と自由な資本移動というネオクラシカルな経済学理論は、経済成長をもたらすと証明されていると説得したのである。

 いちど株式勘定の規制緩和が行われると、中央銀行は、国内企業に、海外資本から借りるように促す、抗いがたいインセンティブを用意した。国内で借りると米ドルで借りるより、高くつくようなシステムにしたのだった。そして米ドルとのレートも固定させると主張した。

 タイでも、日本の窓口指導のように、債券を調節配分するシステムはあった。そして銀行は貸し出しを増やすよう命令されていたのだった。しかし、需要は低かった。なぜなら海外から借りる方が利率が低かったので、国内企業は海外から借りたがったからだ。

 そこで、貸出割り当てを達成するために銀行は、リスクの高い借りてに貸し出さざるをえなかった。

 輸入は減り、競争率は低下した。

投資家がタイバーツ、ウォン、ルピーを売り始めた時、それぞれの国の中央銀行は米ドルとの為替レートを固定し続けようと努力したが、その過程で国内の外貨をほとんど使い果たしてしまった。これにより海外の債権者は自分たちの金を、価値の跳ね上がった額面で引き出す機会をえた。

 中央銀行は、外貨準備高を使い果たしてしまったら破産を避けるためIMFに連絡しないといけないことを知っていた。しかしその場合のIMFの処置は決まっている。

 中央銀行を国から独立させることだ。タイの財務大臣は日本にも、救済措置を求めてきた。日本は213ビリオンドルの米ドル準備高があった。(IMFの資金より多い)

日本は救済に応じようとした。しかしアメリカが阻止した。アジア通貨危機への解決策は、IMF経由で、アメリカによりなされるべきだと。

 IMFは各国の中央銀行にオフィスを構えて指示した。法的な改変、利率の上昇、利率が上昇するにつれて、リスクの高かった債務者たちは、債務不履行に陥った。

 そこで大量の不良債権を抱えることになったタイ、韓国、インドネシアの銀行は実質的に破産状態となった。会社の倒産や、失業率が劇的に増加。

 IMFはこうした結果を予測していた。韓国の場合にも、もし利率が5%上昇したら、どれくらの韓国企業が破産に陥るかなど詳細な調査がなされていた。

 そしてIMFが韓国に最初に要請したのは、まさしく利率を5%上げることだった。

IMFの目的は経済復興ではなく、アジアの国の経済、政治、社会システムを変えることだったのだ。法改正により、海外投資家が銀行から土地まで買収できるようにさせた。

 そして銀行は海外資金により資本を再注入されなければならないとした。その必要はなかったのに。なぜなら中央銀行がお金を刷ればよかったからだ。

 IMFは、銀行は救済されてはならず、安い不良資産として売却されねばならないようにした。その多くが、アメリカの巨大な投資機関により買収された。

 

 しかしこのアジア通貨危機の後、本国アメリカで同じような通貨危機が起こった際には、連邦準備銀行はカルテルのような救出策を取って資金注入し、債務不履行になるのを防いだ。金融機関救出してはならないと、アジア諸国に命じた直後に、正反対のことを自国では行っていた。

 

 日本のバブル崩壊と、アジア通貨危機は、どのように経済危機が人為的に起こせるものであり、それが、ある国の資本を海外投資家に分配し、社会政治経済システムを変え得るものであるかを示している。

 ヨーロッパでも近年似た出来事が起きている。

 

以上、また折を見て改良します・・・。

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