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ちょい虹:映画情報

人生道草しまくり迷いまくりのstray dogが遂に故郷を見つけるまでの物語。

おいらってもしかしてアセクシャルってやつなのか??曖昧なセクシャリティについて考えてみた。

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最近、しばしば「アセクシャル」という言葉を耳にする。

おおまかな特徴・判断方法としては、他人に恋愛感情を抱かない、異性として見れないといったことがあるようだが、一体ふつうの人とどう違うんだろう。

何を隠そう、私も最近これに当てはまるんではないかって気がすることがある。

いや、胸キュンすることだって正確にはあるんだけど、どうも想像の中で終わってしまうのだ。現実にお付き合いしたいとか思わなくなってしまったのだ。

これって・・・単に枯れてるってやつなのか・・??

でもまて、そもそも、男子の場合だったら草食系男子とかとどうやって区別するのかね?色々疑問が浮かんできたので、考えてみることにした。

 

 

アセクシャルは、はっきり明確に区別出来るわけではない

アセクシャル・ネットワークのホームページによれば、まず定義が色々ある。

アセクシャルは、他人に性的魅力を感じないことが、まずおおまかな定義だ。

これと関連して、半(demi)セクシャルというものがある。感情的な絆が作られて始めて、他人に性的魅力を感じる人たちだ。

また、グレイ・アセクシャルあるいはグレイ・セクシャルという分類がある。

 これは、普通に他人に性的に魅かれるセクシャルな人間と、アセクシャルな人間の中間にいる人たちである。

 例えば、性的な魅力を非常に稀に、特別な状況のもとでしか感じなかったり、その程度もとても弱くて、無視できるような程度のものだったりする場合だ。

 こうなると、結構幅広いケースに当てはまりそうなのである。

 アセクシャルは、流動的な状態。過去に恋愛したことがあっても、当てはまることも。

 前述のHPには、Q&Aコーナーが設けられている。

 いわく、今までに恋愛したことがある自分は、アセクシャルとは呼べないのか?

という質問に対しては、「アセクシャル」というのは流動的な状態だから、過去に恋愛したことがある人でも、今恋愛感情を抱けない、とか、抱いても非常に弱かったり、性的な方向にほとんどいかない場合は、この定義が当てはまるという。

 ただ、他人と性的なつながりや恋愛によるつながりを持ちたくても何らかの原因でそれができない場合はアセクシャルとは言わないらしい。

 つまり現実に誰かと付き合えているかどうかよりも、意志がポイントなわけですね。

 

しかし自分はどうにも曖昧なボーダーラインにいそうだ・・・

 自分に関していえば、いわゆるLGBTみたいに、はっきりと自分の恋愛嗜好を確立しているわけでない。だが考えてみれば、昔から同性である女子にもドキドキしてきたし(小学校の時、下駄箱で女子とぶつかると、あ、何かはかなくフンワリした別の生き物に触れてしまったとか思ってたし、長じても、女性の先輩から手を取られたりすると、どうもウットリしてしまっていたし、グラビアアイドル見るのも好き)

かといって、女子と付き合ったことがあるわけではない。

 だが、完全に女性というジェンダーになりきることも出来ないできた。スカートはいたり、ワンピース着たりしてると、どうにも「コスプレ」「仮装」しているような気になってしまうのだ。

 また男性からいわゆる「女の子」として見られると、仮装した少年が友達をだましているかのような「何ドキドキしてんだお前」的な感情を抱くこともあった・・・。

 けれど、実際付き合ってきたのは男性だった。(中性的な人が多かったが)

 んで、今はほとんど恋愛感情がなくなってしまっている。

 ときめくことがまったく無いわけではない。だが、そのトキメキは何か、自分とは遠いところで起こっている、、といったら良いだろうか。眺めているだけで満足なのだ。

 これは単に年取った。枯れた。ということなのか??それとも、おひとり様生活が板につきすぎて、ひとりで充足するようになったということなのか?

 もちろん、気の合う人がいて、何か親密でリラックスできる、帰るべき場所があったらいいなあ、などとぽややンと夢想することはある。でもそれは、恋人じゃなくてよいのだ。心が通い合っていればよいのだ。いわゆる夜の営みの必要性を感じないのである。それに、やはりジェンダーに違和感があるので、何かそうしたことをするのは変な気がする。

 考えすぎといわれるだろうか??

 

恋愛、ひいては血縁家族だけがすべての絆じゃないのでは・・?

Winter Hug

 わたしは、自分がいわゆる「アセクシャル」っていうやつなのか、はっきり言えない、(そもそも定義も沢山あるようだし)

 だが、この「考えすぎ」というのは、アセクシャルな人も、理解しない人からは、しばしば言われてしまうことらしい。

 でもこれだけ人間が沢山いるんだから、中にはいわゆる恋愛や性愛からは、はみ出す人がいたって、おかしくない。たぶん多様性の問題なのだ。

 上述のアセクシャル・ネットワークにしても、趣旨は、「アセクシャル」な状態にあることで、社会の中で孤立してしまってるように感じてしまう人たちの、支えあいの場所という側面がありそうだ。

 世の中、色んな言葉が生まれては消えていき、たぶんこの「アセクシャル」という分類も、ある意味では単に言葉に過ぎないだろう。

 でも、それが生まれた必要性の一つには、「家族」や「夫婦」という単位が当たり前の社会の中でなんとなく生きづらい人達がいるっていうことなんではないか。

 今は未婚の人も増えてきてるから、だんだん緩和されていっているとはいえ、なんとなく「結婚して子供を持って一人前」みたいな空気って、まだ社会にはあると思う。そして、血縁家族が当たり前なので、LGBTの人たちが老年孤独になってしまうという問題もあるようだ。

 概して、家族というユニットの問題なのだ。

 同じ屋根の下とか、ある共同体で一緒に過ごすのを家族ってことにすれば、もっともっと家族の多様性って広がってもいいのにと思う。

 今、シェアハウスや長屋生活など新しい共同体を求める試みは世界中で行われているけれども、私もそれを探求していけたらいいなあと思う。

 血縁家族以外の、親密だったり、ほどよくつかず離れずだったりする協力関係を人と築いて、楽しく創造的に暮らしていくことって、ライフテーマだ。

 

ホモフォビアだって、近年の産物

 日本では、江戸時代以前は衆道って言葉があったくらいで、同性同士のカップルなんて、別にタブー視されていなかったという。弥二さん喜多さんだって、今でいうホモ関係だったのだぞ・・。

 ギリシャ時代はゆうに及ばず・・。

 なので、男女の恋愛がふつうで、それ以外はきもちわるい、という考え自体、一過性のもので、その時々で変わる社会的概念に過ぎない、っていうのが本当のところなのだろう。

 

もともと、男は男を演じてるし、女は女を演じている

 それにジュディス・バトラーの「ジェンダー・トラブル」なんかによると、結局人間は自分のアイデンティティを常に演じて、それによって、自分を作り上げていっているという。

 女が女らしく振舞うのも、男がマッチョに行動してみせるのも、そういう意味では本質的には「演技」というわけだ。

 だからいわゆるストレートな人というのも、結局演じていることになる。

 この演技性にどれだけ自覚的か、馴染み過ぎてほぼ自覚してないかってことくらいが違いかもしれない。

 

まとめ

 そんなわけで、アセクシャルというところから、脈絡なく、つらつら書いてしまったが、LGBTの人たちが孤立感を感じるとしたら、「ふつうの家族」があまりに自明になりすぎているということが、基盤にあると思う。

 いわゆる血縁家族以外にも、色々と人々が一緒に楽しく暮らせる可能性は開けているのではと思っている次第・・・。もちろんふつうに家族を持ったとしたって、気の合う人たちで長屋暮らししたっていいし・・・。

 近年は、老年になって「夫婦二人ぼっち」でぽつんと社会から隔絶されて暮らす例も多い。なんか、違ったタイプのつながりを探求しないのは、勿体ない気がするのだ。

 きっともっともっと豊かな生活、開かれた居場所づくりの可能性ってあるんじゃないかなあ。

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