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「騎士団長殺し」を読んだ感想。舞台設定は?二重メタファーとは?【村上春樹最新作】

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 小説を読むのなんて、もう二年ぶりくらいかも知れない。村上春樹の「騎士団長殺し」早速に購入して読んでいる。とりあえずの舞台設定や感触を速報でお届け!

第二部以降の謎解き考察については、こちらの記事で書いています↓

 

 

tyoiniji.hateblo.jp

 


 

 

ネタバレはなるべくに控えますが、まったく白紙の状態で読みたい人はご用心ください。

 

 

「騎士団長殺し」の主人公

 ものすごく、村上春樹っぽい設定。主人公は、美大を出た36歳の男性。

この微妙なお年頃・・・!もうとっくに、ピチピチの若さはなく、人生に疲れはじめているが、かといってまだ堂々たる「中年男性」には早い、という過渡期の年頃だ。

 あと数年で40歳。40歳が人間にとっては大きな分水嶺だ、とはこの主人公も言っている。

 そして今のところ・・・主人公の名前は登場していないぞ、そういえば!

 

 そして、世捨て人っぽいシチュエーションになってしまっているのも村上春樹っぽい。この男は、突然に妻から別れを告げられ(妻はずっと浮気していたらしい)、しばらくオンボロの車一台で北海道を転々とした後に、学生時代の友人の祖父、高名な日本画家がアトリエに使っていた別荘を貸してもらし、山奥に一人で隠棲することになる。

 主人公は、本当は自分の世界を表現する絵を描きたかったのだが、生活のために仕方なく、肖像画を描くという職人的な仕事をしていた。

 この機会に、40歳になる前に、もう一度自分の世界を探索しようと、自分だけの絵を探求しようという衝動にかられる主人公。

 この「タイムリミットがある」という設定、夫婦の問題、そして世間からの引きこもり生活、というのは本当に春樹っぽい!

 

話題の性描写はどうか?

 確かに、冒頭から、絵画教室の生徒である人妻と寝ていた・・・という告白はあるものの、そんなに刻明にベッドシーンが描写されていることはない。ので、ひつこいエッチシーンはちょっと・・・・という人もそんなに抵抗はないと思う。

 

春樹の文体が、落ち着いてきたか??

 春樹はだんだん初老に近づくにつれ、文体が揺れ動いていた。初期作品や、ねじまき鳥クロニクルあたりまでの、詩人みたいな、なんとも抒情的で気のきいたユーモラスな語り口(これが気障で鼻につく、っていう人もいただろうけれど・・・。)は、だんだんなくなってきていた。 

 たぶん「アンダーグラウンド」とか地下鉄サリン事件の取材あたりが境目になっているだろう。かつてのリリカルな瑞々しさはなくなって、「アフターダーク」なんか、ホラーじみた、誰のものともわからない外側からのまなざしになっていた。

 そして「1Q84」でも、かつてのユーモアを使おうとしているようにみえても、すべってて何か寒い気がした。

「色彩をもたない~」ではかつてのリリシズムが抑制されつつ、変な重苦しさもなくなって読みやすくなった。

 

 そして今回の「騎士団長殺し」では、春樹節みたいな、ライトな文体は抑制されて、かなり淡々とした落ち着いたものになっている。たまにユーモアがすべって寒いところもあるが・・wこれは年だから仕方ないか??

 なので、冒頭部分は少しだけ読みにくい。だけれど、すぐに引き込まれてスイスイ読めるようになってくる。この希代の読みやすさは健在だ。

 

謎解きの要素がある

  村上春樹がうまいのは、いつでも何かミステリーを用意して読者を引き付けていくことだ。この作品でもタイトル通り「騎士団長殺し」がまず謎として突きつけられる。

  それは、主人公がかりた洋館の屋根裏で偶然見つけた、家の持ち主である老画家の絵。穏やかな作品で有名だった雨田具彦画博だったが、屋根裏に隠されていたその 絵は暴力シーンが鮮やか描かれていたのだ。

  オペラの「ドン・ジョバンニ」をモチーフにしていると思われる絵。

ドン・ジョバンニはプレイボーイだが、娘に手を付けられて怒る騎士団長を刺しころしてしまうという場面がある。

 この絵はそのシーンを、日本の古代にうつして描いていた。目を見開いて驚く騎士団長の娘と、あっけにとられる召使、そして苦悶の表情で倒れる老人。それを見つめているのは、冷酷な目をした若者。刃物を手に持っている。

 この冷酷な目をした若者は、目的のためなら感情を動かさずに何でもやるタイプに見えるという。これは、春樹にたびたび登場するトリックスターの人物の典型だ。

 「ねじまき鳥クロニクル」では、主人公ワタナベノボルの義理の兄がそれだった。東大を卒業して、官僚、政治家と権力の座につき、不気味な感情の無さを示す暗黒なサイドにいる存在だ。

 そして何よりも、この絵には、構図を崩してまで異形の人物が描かれていた。

なんと地面からマンホールみたいに蓋があいて、茄子みたいに顔が長く髭もじゃで奇妙な、この世のものではないような人物が顔を出しているのだ。

 超春樹っぽい!!

冷酷なダークサイド、そして地下世界の奇妙な住人。

 

なかなかワクワクさせられる設定だ。

 そして、雨田画家が活躍していた時代も、きわめて微妙な時代。この画家は1930年代、ナチスが台頭している時期にウィーンに留学し、洋画家を目指していた。しかしこの留学をさかいにして、急に人が変わったようになり、帰国してから手法の違う日本画へと転向したのだ。いちから手法を取得するのは相当大変だったのに。

 その時代以降は、日本でも愛国主義が吹き荒れ、国民全体が狂ったように戦争に向かっていた時期だ。村上春樹は、けっこう現代の空気に反応して、社会とつながったところで書いてくれるので、この辺どう展開していくのか気になる。

 これは何故だったのか?そしてなぜ異色の絵「騎士団長殺し」は描かれ、隠されていたのあ??

うお~~超気になる!ってことで、今のところ「騎士団長殺し」は面白いです。期待外れになるのかどうか?

騎士団長殺しで、物語の鍵を握る人物

 物語の鍵を握る謎めいた人物の名前は「免色渉」(めんしき わたる)と読む。

この人の名前、まず注目したい。「色彩を免除する」と書いて、めんしきである。これいは「色彩を持たない田崎~」がどうしても想起される。何か共通のモチーフがあるのだろうか。

 そして、この人物はすごく現代的な富裕層である。(こういう有閑階層の人々も、春樹の作品ではおなじみだが)

 情報を扱う実業家でインターネットで財産を築いたが、会社を売却し、そのお金で日々為替取引のようなことをして生計を立てている。彼は、主人公が住む洋館のさらに上に、大きく豪華な屋敷を構えてたった一人で住んでいる。

 一人でいることを欲するため結婚できないのだ。ずっと独身だ。しかし、昔別れた恋人との間に、もしかすると子供がいるのかもしれない。自分でも分かっていない。

 銀髪の穏やかな紳士で、好奇心に満ちている。この免色が、主人公に肖像画を描いてくれ、と言ってくるのだ。

 主人公「私」は、この免色を描くうちに、自分の中で何か画家として未知の次元へと移動が行われているように感じるようになる。

  そしてこの免色、なんと井戸に潜る!!のだ。井戸が登場!

 わお、ざっつ、むらかみわーるど!井戸ってフロイト心理学の「イド」(混沌とした無意識)とも言葉の発音一緒だね。

 普遍的な、自己探求。これも春樹作品に一貫するテーマ。そして、二人は奇妙な現象に出くわし、その秘密を解こうとするようになる・・・。

 

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「騎士団長殺し」の登場人物 

主人公。名前は明かされなかった。36歳の男性で画家。クラシック音楽を好む。

かつては抽象画を描いていたが、今は生活の必要から肖像画家に転向。

本当に書きたい絵ではないことに、少し無理が来ているがクライアントからの信頼は厚い。妻に去られ、友人の父親である画伯の別荘に引きこもる。

 

働く女性。ハンサムな男性に弱い。(主人公は例外)今回の浮気相手も、ハンサムで性格までいい男性だった。

雨田具彦画伯

現在すでに90歳代の有名日本画家。今は認知症が進み病院に入院している。1930年代にオーストリアに留学し、ナチス高官の暗殺未遂事件に関わったと思われる。その際オーストリア人の恋人もいたのだが、仲間はすべて処刑されてしまった。

 洋画家を目指していたのに、帰国後人が変わったようになり、日本画へと転向した。弥生時代など古代を描いた、人間と自然が調和した穏やかな作風で知られていた。

 

雨田政彦

雨田画伯の息子。主人公の私とは、美大の同級生だった。今は美術に関わらない仕事をしている。有名人の息子なのに気取ったところがない。

色免渉

山の上に大きな邸宅を構える謎の人物。なんでも完璧で愛想もよい。完璧な白髪の持ち主。日常的に体を鍛えている。

まりえの父かもしれない。まりえをベランダから眺めることを生きがいにしている

 

まりえ

 「私」が講師をつとめる絵画教室に通ってきている13歳の中学生。物静かだが、主人子と二人になると、よく喋る。胸が小さいのを気にしている。喋り方はぶっきらぼうで、語尾がつかない

 

哲学的で淡々と進む物語

 

 さて、とりあえず第一部を読み終えた。夢中で一気読みしてしまった。

まず、「騎士団長殺し」は、今までの村上作品の中でも、相当渋い部類に入るかもしれない。ヴィンテージワインを、間接照明に照らされた部屋でゆっくり啜るような・・wそんな感じ。

 雨田画伯が、若いころにウィーンでナチの高官暗殺未遂事件にかかわっていたかもしれないという歴史的エピソード、また主人公の「私」の別れかけている妻との過去や、夭折した妹との関係、それに免色の、自分の娘かもしれない女の子を遠くから双眼鏡で覗き見る奇妙な習慣・・・

 そうした色々なエピソードが交錯しつつも、今のところ「ねじまき鳥クロニクル」みたいに様々な人物の視点から、様々な時空間に飛んで物語が語られたり、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」みたいに、冒険が繰り広げられるわけではない。

 あくまでも山荘にこもって、淡々と肖像画を描くわたしの日常が、奇妙な「小人」(これも村上作品によく登場するモチーフ)とのエピソードを交えつつ、淡々とかたられている。文体も、割と禁欲的だ。(とはいえもちろん春樹だけあってスイスイよめる独特の軽さがある)第一部は、まだこの先何があるかわからないが、ある種の平穏さの中でものごとが進んだ。哲学的な小人と主人公の会話もあったりして、スリリングさを求める人だと、つまらないと思ってしまう可能性もある。だが、不思議とぐいぐい読み進ませる力があるように思う。

 第二部では、どう展開するんだろう?第一部では謎がまだ展開されていく段階だ。第二部では謎がさらに現れて、解決されるんだろうか??

 ともかくも読み進めよう・・・。

第二部のよみかた

 

 村上春樹の「騎士団長殺し」について、もう一つ解読を忘れていたので追記。

第二部で「二重メタファー」なるものの存在が、「顔なが」から主人公に知らされる。

それは、ドンナ・アンナによると

「あなたの中にありながら、あなたにとっての正しい思いをつかまえて、次々に貪り食べてしまうもの。そのように肥え太っていくもの。それが二重メタファー。それはあなたの内側にある深い暗闇に、昔からずっと住まっているものなの。」

 ということだ。

 「私」は結局、メタファー通路の中で、この二重メタファーに正面から襲われることはなかったのだけれど、これは一体何を意味しているんだろうか。

 

「二重メタファー」の意味

 「騎士団長殺し」の中ではジョージ・オーウェルの「1984」について触れられる箇所がある。そして、春樹の以前の作品のタイトルは「1Q84」だった。

 このことを考えると、まず間違いなく、オーウェルの作品の中で語られる、かの有名な「二重思考」のことを差しているんじゃないだろーか。

 

「二重思考」というのは、「1984」の作品中では「二重思考とは一つの精神が同時に相矛盾する二つの信条を持ち、その両方とも受け容れられる能力のことをいう」と定義されている。

その例は、たとえばこんな感じ。

戦争は平和である
自由は屈従である
無知は力である

  今、世界の軍事屋さんたちが打ち出しているスローガンも、まあ似たりよったりである(-_-;)

「平和を守るための戦争」というのなんか、まさしく。

 

これなんか、「あなたの中の正しい思い」=平和でありたいなあ、という願いを掴まえて「平和であるために危険そうな敵を根絶やしにしとけ!」という戦争へ持っていく=思いを貪り食う、というケースの典型と考えてもいいかもしれない。

 一見正しそうに見えるのが恐ろしいところだ。

「二重メタファー」を受け入れ始めると、人々は進行している事態について疑問を持つことをやめ、思考を放棄して、ただ現状を追認するようになってしまうだろう。

 

村上春樹と政治

 たぶん、村上春樹は、今かなり時代状況について心配しているのだと思う。イスラエルでの「壁と卵」演説にしても・・・。(そういえば騎士団長殺しにも、高い壁についてのエピソードが出てきた」)

 それから、誰しも(一国レベルでも)、自分の暗黒面を見つめなければいけない、とも最近発言している。最近は、やたらと「日本人すごい!」「日本万歳!」みたいなものが喜ばれるし、日本が犯した過去の過ちを認めない風潮も出てきている。

 だからこそ、旧日本軍の捕虜斬首などについての場面を入れてきたということはあるだろう。なにごとも、暗い側面を見つめるのをやめてはならない、ということで。

 春樹は、もともと60年代にまわりの学生が安保闘争にふけるのに付き合いきれなくて、そういうこととは無縁なノンポリというか、ディタッチした姿勢で小説を書き始めた作家だ。

 その人が、最近ではこうした政治的発言をするようになったというのは、時代の変化を思わせる。・・・いや、歴史や世界情勢に対するコメントが、ことさら「政治的」に見えてしまうことが、ある意味異常なことなのかもしれないけれど。

 

春樹は「信じること」を持ち出すのだが・・

 ともあれ、こういう「二重思考」に対して、春樹は何を持ち出していたか、というと・・・・。

結局、すごく個人的なつながりを信じること、というところに行きついているようにみえる。たとえ夢の中にしろ、妻とベッドを共にした結果、できた娘を一緒に育てる。そして、それは夢の中で強い思いを持って結ばれたのだから、ある意味で「本物の子」なんだと信じる。

 誰かのぬくもりやその人との結びつきを信じる、という方向だ。

ここはやはり個人主義の春樹らしい。最後は自分の一番大切にしているものに行き着く。でも、その大切な娘を守るために、何か悪いことをしろ、と言われた時はどうすればいいのだろう?という疑問も浮かぶ。

 実は他に解決手段があるのに、動転して、犯罪に手を染めてしまう人もいるかもしれない。

 確かに、皆が自分の半径数メートルの大切な世界を一番だいじにすれば、世界は平和になるだろうけれど。

 いきなり皆がそうなれるわけではないから、難しい。

人間はまだまだ「イデア」=騎士団長に 取りつかれてしまう生き物なのだ・・・。

 

まあでも、こういうのに物語で(物語でなくても)結論出すのは難しいだろうなあ。

とりあえずはイデアや二重メタファーに取りつかれそうになったら、ともかく迷路の中にさまよいこんで、簡単に結論を出さないこと、ということを、もしかしたら言いたいのかもしれないが・・・。 

 それにしても今回の作品には「娘」を希求する思いみたいなものも感じた。子どものない作家にとってはある意味作品が子どもみたいなものであろうと思うが、それでもやはり時に子どもを持つことに憧れるのだろうか。

・・・いや、それは単純すぎる考えだろう。

 子どもといっても、本物の血をつながった子どもは持たなくていい。たとえ想像の中の子どもであろうと、それはリアルな存在なのだ。そして現実を変える力を持っている、なんとなく、そっちの方向だろうという気がしたのであった。以上、追記終わり。

※読み終えた人向け謎解きは別記事でも書いてます☆

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