国立新美術館で、3月8日(水)から6月5日(月)まで、アルフォンス・ミュシャの展覧会が開催されます。
背景知識があると、鑑賞した時の感動もひとしお。
見に行く前に知っておきたいこと、見た後におうちで知っていっそう余韻を楽しめる背景知識や作品画像をまとめました。
【目次】
ミュシャ展(2017)の見どころ
今回は、ミュシャ晩年の大作「スラブ叙事詩」が公開されます。
この「スラブ叙事詩」は、ミュシャの数々の作品の中でも、縦6メートル、横8メートルという巨大キャンパスに描かれた最大のもの。
しかもこれが20点、チェコの国外では初めて勢揃いします!
関係者からは「どうやって、あんなものを運ぶんだ??」という声も漏れたほど。
ともあれ、運搬には成功したようで、無事に日本に到着しました!
「スラブ叙事詩」の時代背景
スラヴ叙事詩は、1911年に初めてキャンバスに描き始められました。前年の1910年ごろには、ミュシャはすでにビドロ著「スラヴ民族」やノヴォトニイ「チェコの歴史」など、資料となる本を揃えたり、スラヴの歴史家エルンスト・ドニに相談するなど準備を整え、作品のためのスケッチを開始していました。
このとき、ミュシャは長年暮らしたパリから故郷チェコのプラハに戻り、この巨大な絵画の制作場所を探していました。
そして見つかったのはお城!
とある有名な外科医が借りていたスビロフ城の、大ホールを借りて、天井をガラスで覆って採光し、アトリエに変えたのです。
ミュシャの一家は、その後二十年間も、このお城で生活することになりました。
そしてもちろん、芸術家が見つけなければいけなかったのはパトロン!
ミュシャはアメリカにパトロン探しのために何回も足を運び、実業家のチャールズ・クレインを見出したのです。クレインは、スラヴ系の芸術家に旅費を支給したり、ニューヨークのロシア交響楽団を経済面で支援するなど、スラヴ芸術全般の庇護者として知られていた人物です。
「スラヴ叙事詩」はスラヴ民族の歴史を描く大作。
「スラヴ叙事詩」の数奇な運命
By 不明 - http://www.radio.cz/fr/article/106478, パブリック・ドメイン, Link
「スラヴ叙事詩」をミュシャが描いた頃は、
この国の体制はチェコ人を満足させるものではなく、
1919年に「スラヴ叙事詩」が初めて公開された時には、
20世紀の前衛芸術に魅せられていた若い世代の画家には、
また、第二次世界大戦後、チェコはソ連に合併されました。
ミュシャの象徴的で壮大な画法は、社会主義の写実とは違う、ブルジョワ的な画家だとみなされてしまったのです。
作品はモラフスキーの古城にかくまわれていて、
※ 「ビロード革命」と1989年にチェコで起きた民主化要求運動。
スラヴ民族とは?
なんとなくぼんやり、ロシアとかハンガリーとか、東欧の方の、
実は、ヨーロッパの中では最大の民族集団なんです。
定義としては、主に言葉の面から考えると分かりやすそうです。
ウクライナやポーランド、
南スラヴ地域では、アジア系のブルガール人が侵入してきて、
どことなく日本人から見て親近感を覚えるところがあるのは、
スラヴ民族は、ロシアが発展した以外ではオスマン・トルコや、ドイツに支配されてきて、なかなか自分たち民族の文化を発現できないでいたのです。
スラヴ民族は、正教会の教徒が多いです。あの、十字架の上にもう一本、斜め棒がついた十字架のキリスト教ですね。典礼が、カトリックみたいに豪華で、儀式では蝋燭や花束、そして香炉からはかぐわしいお香がふりまかれ、司祭さんも金色銀色の刺繍をほどこした、絢爛豪華な衣装を着ているので有名です。
ブルガリアの王様ボリス1世が864年にギリシア正教に改宗し、ロシアのウラジーミル公も、10世紀末に、正教を国教にしました。
言語という点では大きく括れますが、文化的には、スラブ圏でも様々な相違点があり、時には対立を生んでいます。
トルコやドイツに支配されていたことを背景に、スラブ意識の高揚がうまれ、1792年にチェコのヨセフ・ドブロフスキーが描いた「ボヘミアの言語と文学の歴史」が、スラヴ文献学の始まりとなりました。
またスラブ民族運動は、ロシアが率いる汎スラブ主義にも結び付いていったのです。
第一次世界大戦以前に起こっていた、1877年~78年のロシア・トルコ戦争も、ロシアの言い分では、トルコに隷属していたスラブ民族を解放するための戦争でした。これが、バルカン半島に国際対立を呼び込み、第一次大戦が勃発した背景の一つとなったのです。
スラヴ叙事詩の作品群
「スラヴ叙事詩」20点の中から、独断と偏見でいくつか選んで見どころをご紹介したい。
故郷のスラヴ人
By アルフォンス・ミュシャ - http://russianculture.files.wordpress.com/2010/12/slovane_v_pravlasti_81x61m.jpg, パブリック・ドメイン, Link
1912年作
故郷で、奴隷状態に陥っていた時のスラヴ人を描いたもの。時代は、BC3~6世紀と、古代であり、スラヴ民族草創期である。
背景には、炎が上がり、アラビア風の装束を身につけた騎馬民族の襲撃シーンだということが分かる。襲撃者は影になっている。背景には満点の星空があり、星空と呼応するかのように、前景には、スラブ人の男女(夫婦?)が、縮こまって身を隠している。
右手の方に現れている、刀を身につけた人物は、スラヴの守護神とされる。彼の両脇にいる二人の人物は、戦争と平和の象徴と解釈されている。
劇場のポスターから出発したミュシャにふさわしい、演劇的な構図である。
ルヤナ島のスヴァントヴァントの祝祭
By アルフォンス・ミュシャ - http://russianculture.files.wordpress.com/2010/12/slovane_v_pravlasti_81x61m.jpg, パブリック・ドメイン, Link
1912年作
ルヤナ島では毎年スラヴの民による収穫祭が行われていた。この絵は祝宴の真っただ中を描いた絵だ。だがミュシャは、1168年に、この島がデーン人(デンマークの軍隊)により侵略されてしまうことを知っているので、その不吉な予感をも含みこんで、この作品を描いている。
その証拠に、左上には、北欧神話の戦争と死の神、オーディンが、岩の塊のような狼を三匹従えて出現しており、攻め込んでくる気配だ。
右手には、古代の楽器を手にした人々が祭りの装束を着てお祈りをあげている。手にしているのは、竪琴やカスタネットのような楽器(?)、それにバイオリンに似た弦楽器だ。牛の首があちこちで燔祭に捧げられている。
中央で赤子をしっかりと抱いて、絵を見る私たちをまっすぐに見つめるスラヴ人女性の存在が非常に力強い。
大モラヴィア国へのスラヴ式儀式の導入
By アルフォンス・ミュシャ - http://russianculture.files.wordpress.com/2010/12/zavedeni_slovanske_liturgie_na_velke_morave_81x61m.jpg, パブリック・ドメイン, Link
1912年作
9世紀に誕生したモラヴィア国は、最初のスラヴ人国家だった。今のチェコから、ポーランド、ハンガリー、オーストリア周辺までを支配した大きな国である。
しかしまだ西欧のラテン文化の影響が強く、キリスト教の典礼も、ラテン語で行われていた。しかしこれは庶民には理解できない言葉だった。
そこで国王ロスチフラフは儀式をスラヴ語に切り替えることを提案する。
反発するものを説得するために、ローマ教皇の許可を取り付けるなどして奔走した。この絵の中では、典礼を許可するローマ教皇からの手紙が読み上げられているところだ。
茫然としたり抱き合って喜んだり、額に手を当てて何かの感慨にふけるものなど、人々それぞれの反応がよく描かれている。
右手の城壁の上にイコンや彫像のように浮かんで描かれているのは、賛成派だったロシアとブルガリアの王と王妃である。着物のような衣装の美しさも見どころだ。
画面全面のボブカットの青年が手にする輪はスラヴ民族の団結を象徴しているとされている。
現実世界の民衆は白く明るい光の元に描かれ、青紫色に、象徴的な人物たちが描かれている。このように象徴世界と現実世界の出来事を同時に描いているのは、ミュシャのスラヴ叙事詩の特徴でもあるだろう。
ブルガリア皇帝シメオン
By アルフォンス・ミュシャ - http://russianculture.files.wordpress.com/2010/12/car_simeon_bulharsky_48x405m.jpg, パブリック・ドメイン, Link
893年~927年に在位したブルガリア皇帝シメオン。東ローマ帝国をも圧倒したほどの勢力を持っていました。彼の元には大モラヴィア(現在のチェコ近辺)から追い出された、スラヴの知識人達が多く集まり、スラヴ文化や教育の中心地となり、スラヴ文学も一時代を築いたのです。
絵では、赤や金色、天上的なブルーなど、豪奢な色彩が使われていて王家の豊かさを思わせます。中心にいる王の衣装は赤、そして赤い絨毯がその下から伸びていて王の力を強調しているかのようです。
王のまわりには学者や司祭が集まっていて、王はちょうど何かを書き取らせている最中。
装飾にはビザンチン様式と、スラヴ様式が混ざっているところも興味深いポイントです。
プシェミスル・オタカル二世
By アルフォンス・ミュシャ - http://www.mkrumlov.cz/turista/kultura/meks/img/big/epopej12a.jpg, パブリック・ドメイン, Link
1924年
モラヴィア国が滅びたあとに、10世紀にまたスラヴ人の王国が誕生した。12世紀から14世紀にかけて、このプシェミスル家が強大な力を持って地域を統治していた。
だがハンガリーの国王とは敵対していたのだが、オタカル二世の姪とハンガリー王の息子の結婚が結ばれることにより、和解した。ミュシャは、スラヴ民族の統一の様子を描きたかったのだろう。
だが実はこの絵にはフィクションも含まれていて、ほかのスラヴの王様たちは、結婚式に出席はしていなかった。ハンガリー国王を除いては。
画面は演劇の舞台のように、真ん中の国王たちにスポットライトがあてられ、後の部分は陰に沈んでいる。
オタカル王は「鉄人王」とも「黄金王」とも呼ばれる強大な権力を持っていたが、そのため他の貴族は、まだ力弱い貧乏な貴族だったハプスブルク家を盛り立てることになり、その後のオーストリア・ハンガリー二重帝国への流れに繋がっていく。
東ローマ帝国の王としてのセルビア王ステファン・ドゥシャンの戴冠式
By Alphonse Mucha (1860-1939) - from the Cycle, “The Slavonic Epic”, no 6. 1926, パブリック・ドメイン, Link
1926年作
1346年にドュシャンはセルビア王として即位した。ビザンチン帝国が崩壊した後に、ギリシャやセルビアなどの広い領土を治めた将軍である。
画面中央の白服の王は宝玉を手にしていて、家臣たちがうやうやしく衣装のすそを持ち上げて歩いている。後ろの方では、戦士たちが剣を抜き放って勝ちどきをあげているのが見える。
全面の娘たちと、左右に垂直に立ちあがる旗のラインが、絵全体のフレームのような役割を果たしている。花束をかかげた華やかな娘たちと、くすんだ色の男性の隊列が交互に描かれているのも特徴的だ。
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クロミリーチェのヤン・ミリーチュ
By アルフォンス・ミュシャ - http://russianculture.files.wordpress.com/2010/12/jan_milic_z_kromerize_405x62m.jpg, パブリック・ドメイン, Link
1916年作
ミリーチェはもともと、プラハの宮廷の副大臣でしたが、教会の改革に努めるようになった人物だ。「新エルサレム」という名前の、元娼婦のための施設を1372年に建設し、のちの宗教改革者ヤンフスなどに大きな影響を与えている。
絵の中では、売春宿だったものが修道院に変えられた後の場面が描かれているようだ。工事現場の高台のような奇妙な場所からミリーチェは女たちに聖書を読み聞かせているようにみえる。
髭の長い人物と、ローブの人物、どちらかがミリーチュなのかには、議論が色々あるようだ。しかし、髭の人物は、表情豊かに描かれていて、ローブも脱ぎ掛けているところが実践的に社会活動をしたミリーチェにふさわしいようにも見えるが、どうだろうか。
ベツヘレムの教会で説教するヤン・フス
By アルフォンス・ミュシャ - http://russianculture.files.wordpress.com/2010/12/kazani_mistra_jana_husa_v_kapli_betlemske_81x61m.jpg, パブリック・ドメイン, Link
1916年作
ヤン・フスは中世期のチェコの神父。
教会の腐敗を批判する先進的な宗教者だった。1415年に異端審問にかけられて処刑された。
この絵では、演壇から身を乗り出すようにして、熱心に集まった人々に語りかけるフスの姿が描かれている。
当時の人としては珍しく、髭を生やしていなかったフスは、若々しく見える。教会の二階のギャラリーにまで人々が集まっていて、当時の熱気が伺える。
クジージュキでの集会
By Alfons Mucha - http://www.reflex.cz/galerie/kultura/10414/?foto=5, パブリック・ドメイン, Link
1916年作
ヤン・フスが処刑された後、フス派はますます火に油を注がれたように、活動を活発化させた。
この絵ではリーダーの一人、コランダが屋外で人々に説教をしている。
教会は質素であるべきと主張していたフス派は、豪華な教会内ではなく、野外でのよりシンプルな環境での集まりを好んでいた。
背景の山は荒波のようにうねり、空は黒雲に覆われ、今にも嵐が来そうだ。フス派の反乱を予感させる景色になっている。
風になびく白旗は犠牲のシンボルといわれている。赤旗は、血の色であり情熱と希望が託されているかもしれない。しかし、半分黒雲の陰になって暗くなっていて、道のりの困難さや波乱を暗示しているかのようにもみえる。
ヴィトコフでの戦いの後で
By アルフォンス・ミュシャ - http://vlastenecka-pospolitost.wgz.cz/image/14626115, パブリック・ドメイン, Link
1923年作
1419年、フス戦争勃発。ヤン・フスの教えを受けた者達と、彼らを異端とみなすカトリック・神聖ローマ帝国の戦いだった。
絵に描かれている場面は、1420年ローマ帝国のジギムンストがプラハを占領し、フス派が丘の上で防備を固めているところだ。この直後に、支援の部隊がやってくる。
フス派のリーダー、ヤン・ジシカは盾や剣を下に置いて祈っている。
左手には僧がいて、人々が五体を投げ出して祈っている。
左隅に、赤子を抱えた母親が、戦争にもうウンザリした様子でいる。
ミュシャの「スラヴ叙事詩」には、このように赤ちゃんを抱いた若い母親の姿がよく登場して、重要な位置を占めている。希望や、民衆の苦悩、など大切な感情が託されているように見える。
ヴォトナニャのぺトル・ヘルチッキー
By アルフォンス・ミュシャ - http://russianculture.files.wordpress.com/2010/12/Petr_Chelcicky_52x405m.jpg, パブリック・ドメイン, Link
1918年作
これも、フス戦争に関連した作品です。ヘルチツキーもまた、改革派の宗教思想家でしたが、暴力は否定し、平和主義の立場を取っていました。
戦乱に巻き込まれフス派に襲撃されたヴォトナニャの人々を、聖書を手にしたヘルチツキーが慰めている場面です。
画面後ろでは、いまだに家々が焼かれているのか、戦乱の黒い煙が上がっていて、人々はそれを茫然と見つめています。
画面右側には幌馬車とそれに繋がれたままの馬がいて、人々がいましがた、自分たちの村から家財道具を抱えて逃げてきたばかりということを思わせます。
全面には死者なのでしょう、蒼褪めて横たわる人々が描かれています。裸体なのは、なぜか不明ですが、身ぐるみを剥がれたということなのかもしれません。
1918年は第一次世界大戦のただ中であり、ミュシャがその戦争の犠牲者や悲惨さに思いを寄せて製作した絵ではないでしょうか。絵の副題は「悪に悪を持って応えるな」。
ヘルチツキーはそう人々に教えていたのでしょう。
スラヴ人の国王、ポデブライのイジー
By Alfons Mucha - http://www.reflex.cz/galerie/kultura/10414/?foto=16, パブリック・ドメイン, Link
1923年作
15世紀。
150年ぶりのスラブ人の国王、イジーはフス派の穏健派だった。しかし、フス派を認めようとしないローマ教皇とは対立せざるを得なかった。
イジーが王になったとき、教皇は謁見を断った。その後、カトリックへの改修を求めて教皇が使節を派遣したとき、イジーはその要求をはね付けた。
この作品は王が椅子を蹴って立ち上がり、その旨を使者に告げている場面。
不思議なことには、主役であるはずの王は右側の暗い場所にいるうえ、こちらからは背を向けているため顔が見えない。逆に、使節団は窓から日が差す明るい場所にいて鮮やかな衣装をつけていて、驚きの表情を浮かべている。
椅子を蹴って立ち上がるという仕草は、とても演劇的だ。やはりスラヴ叙事詩は、ミュシャが描いた一連の群像劇を見ているような趣がある。
右下の正面を向いた人物は、「ローマ」と表紙に書かれた本を閉じたところで、ローマ教皇との断絶を象徴している。
(ただ実際には、イジー王はフスの過激派を弾圧することで教皇には間接的に従うなどバランスを取ってもいる)
ズリンスキーによるトルコ軍からの防衛
By アルフォンス・ミュシャ - Internet, パブリック・ドメイン, Link
1914年作
1566年、当時スラヴ諸国に勢力を伸ばしていたオスマントルコがハンガリーにも攻め入った時のことを描いた絵画。スラヴ叙事詩の中では、唯一戦争の真っただ中の光景を描いた作品だ。
この時シゲトの街の司令官は、クロアチアの貴族だった二コラ・ズリンスキー。
しかし多勢に無勢。シゲトの街はもうすぐ攻め落とされようとしている。人々は、敵に火薬庫を渡すくらいならと、みずからの火薬庫に火を付けようとしているところだ。
悲劇的な場面である。絵の真ん中に黒塗りで描かれた煙は、その火薬庫から立ち上がる煙をシンボリックに表現しています。
画面左側の真ん中では人々が輪を作り、両腕を上に突き出して戦いの意志を表明し、志気を上げています。
ヤン・アーモス・コメンスキー
By Alfons Mucha - http://www.reflex.cz/galerie/kultura/10414/?foto=19, パブリック・ドメイン, Link
1619年、フェルディナンド2世がボヘミア大公となり、カトリック化政策を推進した。このためプロテスタントの諸侯との間に戦争が巻き起こり、フェルディナンド公が勝利。プロテスタント達は追放された。
知識人や貴族も、この時多くが国外に亡命した。
ボヘミア兄弟団の指導者だったヤン・コメンスキーもその一人で、教育者として名高い。
彼は、現オランダ(ネーデルランド)に亡命し、ナールデンの海辺を散歩していたという。息を引き取ったのもこの海辺とされ、この絵はその瞬間を描いたもの。
ヤン・コメンスキーは、子どものためにイラストが入った百科事典を、初めて編纂し世に出した人物でもある。
ミュシャは、「スラヴ叙事詩」の中ではこの絵にだけ署名していて、特別な思い入れをこの絵に持っていた可能性もある。
スラヴ叙事詩の中では例外的に、人のいない空間が広くとられ、青く静謐な光のたたずまいが印象的である。右手の椅子に座っているのが、この世を去ろうとしているコメンスキーであり、左手の前景には、彼を慕う人たちが悲しんで座り込み、あるいは立ち尽くしている。
灰色と青が基調の画面だが、真ん中やや左には、カンテラに明かりが灯っていて、スラヴ民族の希望をも表しているようにみえる。
聖山アトス
約4m×5mと「スラヴ叙事詩」の中では小ぶりな作品ながら、神聖な光に満ちた雰囲気と均整のとれた構図から印象深い一点。
ギリシャのアトス山はギリシャ正教会の聖地である。ミュシャは実際に1924年にアトスを訪れ強い感銘を受けた。 絵の下部には現実世界の民衆が描かれ、その上には、光り輝く天使たちが彫像のように出現している。彼らが手にしているのは、この地域に点在する、実在する修道院のミニチュアである。
そして最上部には、穏やかなマリア像が、画面すべてを包み込むように、ひっそりと微笑んでいる。
By アルフォンス・ミュシャ - http://staratel.com/pictures/modern_/mucha/pic106.htm, パブリック・ドメイン, Link
スラヴ賛歌
By Alfons Mucha - http://www.reflex.cz/galerie/kultura/10414/?foto=12, パブリック・ドメイン, Link
「スラヴ叙事詩」の一番最後の一枚に当たる作品。これまでの作品の集大成にあたっていて、スラヴ民族の独立と勝利を祝している。
色彩は主に四つに分かれていて、それぞれが今までの異なった時代を表現している。
右下にみえる青いパートは、斜め上から俯瞰された人々で、神話時代のスラヴ民衆。
中央の黄色いパートは、1918年の解放と、第一次大戦で戦った人々である。
大きくシンボリックに、木の幹のように描かれた青年像が印象的だ。
青年の後ろには、イエス・キリストの姿があり、人々を背後から庇護しているのだろう。
中上段にある、帯のように描かれた黒いパートは、スラヴ人の敵の姿だ。
左上の赤いパートは燃え盛るフス戦争の炎だ。
やや統一感にかけていて詰め込み過ぎの気もあるが、ミュシャがそれだけ思いを込めて描いたのだろう。
まとめ
ミュシャといえば、上の写真のように、広告ポスターのような高度にデザイン化されたアール・ヌーヴォーの作風が有名。優雅で繊細。
そこで、このような壮大な作品も描いていたことは意外かもしれません。そもそもパリで活躍していたミュシャの、チェコ語の名前はムハで、スラヴ人であったことも、それほど今まで一般に語られてはいなかったように思います。
それでも「スラヴ叙事詩」にもミュシャらしく、大胆でシンボリックな構図と、神秘的な雰囲気が、独特な魅力を与えています。
同時に、デザイン的な画風であったミュシャの限界もみえる気がします。限界は、同時に魅力となることも多いのですが。
ミュシャの新たな面に目が開かれそうな展覧会です。