ウィル・スミス主演、クリスマス前のハートウォーミングムービーとして企画されたであろう、この一本。広告代理店で成功した広告マンとして働いていたハワード。失意のハワードに「愛」「時」「死」を体現した者たちが現れ、次第に彼を回復へと導くという物語。
しかし、個人的には、不満が結構残る作品になってしまっていた。ネタバレ有なのでご注意願います。
「素晴らしきかな、人生」のあらすじ
ニューヨークで働く広告代理店のエグゼクティブ、ハワード。彼は娘を亡くしてからというもの、喪失感に打ちひしがれ、何もできず闇雲に自転車で街を走り回る状態だった。そんな彼を心配した同僚達。
ハワードが、「愛」「死」「時」という抽象的概念たちに向けて、手紙を書いているのに目をつけ、いっそのこと彼を癒すには、彼の幻想の世界に自分たちが入っていってやればどうか、そうしたら対話できるんじゃないかと思いつく。
彼らはそこで、演劇をやっている無名俳優たちをやとって、それぞれ一人ずつ、この抽象概念を演じてもらうことにする。ハワードが書いた手紙に、彼らが反応を返すのである。「死」は老女が演じ、「愛」は若いお姉さんが、「時」はやんちゃな少年がそれぞれ演じることになった。
突然街で話しかけてくる彼らにハワードは戸惑う。食事中や電車の中でまで話しかけてくる彼らを、時にうざがり、時に追い払い、だが次第に彼らの言葉によって心を開かれていもいく。同時に、子どもをなくした親たちの自助グループにも顔を出すようになる。そこで、一人の参加者が娘をなくした時、天使を見たという。それは隣の席の老女だったのだが「死と共にある美しさ(コラテラル・ビューティ)も見逃さないようにしなさい」と告げられたのだった。
同僚たちは、役者の演技によって、ハワードをよかれと思いながらあざむいている状態なのに次第に耐えられなくなっていき、ついに私たちが役者を雇っていた、とばらしてしまう。ハワードは怒らなかった・・・。
「素晴らしきかな、人生」の監督やキャスト
監督・・・デビッド・フランクル
出演・・・ハワード=ウィル・スミス
ブリジッド=ヘレン・ミレン
ウィット=エドワード・ノートン
マデリーン=ナオミ・ハリス
クレール=ケイト・ウィンスレット
この映画は、製作方針でもめて監督やキャストが次々と降板したらしい。。。汗
しかし役者は豪華である。「タイタニック」のケイト・ウィンスレット、「アメリカン・サイコ」のエドワード・ノートン、それにもちろん大スターのウィル・スミスである。
「素晴らしきかな、人生」の上映時間や日本公開日
- 上映時間・・・94分
- 日本公開日・・・2017年2月25日
- ジャンル・・・ハートウォーミングドラマ・コメディ
「素晴らしきかな、人生」の評価
ディケンズのクリスマス・キャロルを彷彿とさせる
チャールズ・ディケンズのクリスマス・キャロルを思い出させられた。様々なゴーストが現れて、スクルージに問いかける。この映画も、ゴーストではないが、「愛」「時間」「死」がそれぞれ人物として現れて、かわるがわるハワードと言葉を交わすことになる。その中で次第に心が開かれていくというストーリーだ。
けれど娘を喪失して絶望しているハワードの心はかたくなである。「私はすべてに満ちている。悲しみにすら私は満ちている」という愛の言葉に「もう茶番はたくさんだ」というし、死はすべての終わりでないという言葉にも、「インテリのゴミ屑さ。そんな類の言葉は。色んな宗教がそういうことを言ってきた、だがおれは信じないね」みたいな反応をする。
だが、やり取りを通して次第に次第にハワードの心はほぐされていく。
演劇についての物語ともなっている
映画の中では、三人の役者が舞台上ではなくて、日常の街の中でハワードに近づいては台詞&即興台詞のやり取りをする。もともと手紙をこの三つの抽象概念について書いていたのはハワードなので、それをキャラクター化することは、ある意味でハワードの頭の中を作品化するということでもある。
これは、演劇を治療として使ったらどうなるか、という実験報告を映画にしたようなものとしても見れるだろう。
物語冒頭で、ハワードがまだ娘を失う前に、プレゼンを行っているシーンがある。その中で彼は「愛」「時間」「死」これが、世界中のどんな人々にも国を超えて伝わる概念だ。皆商品を買い、何かを希求するのも、一日の終わりには私たちは愛に憩いたいと思い、時間が足りないと感じ、死を想う、だからだ、という。
人間にとってのエッセンシャルな三要素がこの三つであるということだ。セリフは、このそれぞれについての考察や提案を述べるもので、いいこともいう。
ただ、エンディングが何か宗教臭さを感じる・・・・
主演のウィル・スミスというのは、ハリウッド俳優がやたら加入していることで有名なサイエントロジーという宗教に入っているのだが、もしかしたら、その関係の製作筋だったろうか??分からないが、何かちょっと宗教臭くて納得がいかない部分があった。
まず自助グループは、自分の子どもの名前や亡くなった時の年齢などを互いに言葉として述べ合い、物語ることでそれを解放する。しかしハワードはいつまで経ってもこれができず、かたくなに自分の心を閉ざしたままだ。
だがこれは、娘を喪失したことを認めたくないことのあらわれでもあるだろう。そんな彼に、マデリーンは娘の名前など言うことを迫る(無理強いはしないが)のだが、いいじゃん、言いたくないうちは無理にいわなくて・・・・と思ってしまった。何か、自己啓発セミナー臭がする・・・。もちろんそうしたワークショップが役立つこともあるのだろうと推測はするけれど。
それから、「コラテラル・ビューティ」である。この世から去る人を見送るときに「美も見つめろ」というのはなんか無粋というか偽善的な気もしてしまう。そんなに簡単に気持ちに折り合いつけられないのが人間じゃないのか??などと・・・。そりゃあ美もあるかもしれないよ、しかし、それを美と名指した途端にそれは、美ではない、エセの美になってしまわないかとか思う。
また、エンディングでは回復したマデリーンとハワードが手をつないで、やけに緑がキラキラ輝く公園の中を歩いていくというショットで締めくくられるのだけど、このシーンも何か、この世の暗黒面をあえて見ないようにして、キラキラな側面だけを見ようとする一部宗教信仰の嘘臭さ、軽薄さを感じてしまった・・・。
まとめ
そこまで悪くはないが、どうも後半は宗教団体の啓発ビデオみたいに見えてしまったのだった・・・。どうも自分は裏を読む性格なのもあり、こういうエンディングとはなじめないようである・・。