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「むらさきのスカートの女」感想・あらすじ☆面白い?つまらない?【2019年上半期芥川賞受賞ネタバレ少なめ】

面白い?つまらない?読んでみた。

 人称の使い方がなんとも奇妙。「四人称」とも言えるような変な感触。

 

「世にも奇妙な物語」のような。主人公の視線がなんとも独特な。

2019年夏の芥川賞が発表になった。

前回も「星の子」で候補に挙がっいた今村夏子さんが受賞。

 

読んでみたのであらすじや感想を書いておきます!

単行本の表紙は、二つのスカートから、二本の足が出ているという、

なんとも不思議感漂うイラスト。

 

物語を読んで受ける感触に、結構近かった。

 

「むらさきのスカートの女」登場人物

  • 主人公

「むらさきのスカートの女」を観察する自称「黄色いカーディガンの女」。

自分については、あまり語らない。

 

ホテルの清掃業の仕事をしている。

実は、家賃が払えなくなるほど生活が逼迫している。

 

「むらさきのスカートの女」が気になって仕方なく、心配したり陰ながら世話をやこうとしたりする。

 

  • むらさきのスカートの女(日野)

年齢不詳。

遠くからだと中学生にも見えるがシミが浮いていて髪もパサはパサしているとこからは、若くないことが分かる。


いつも公園のベンチの定位置に座って、菓子パンなどを食べている。主人公の観察によると、月の半分くらいは働いて半分くらいは無職だという。


でも昼間からフラフラしていることが多いので近所の人には完全に無職だと思われている。
主人公によれば近所では「知らない者はない」ほど注目されている人物。

 

  • 所長

主人公と「むらさきのスカートの女」が働いているホテルの事務所の所長。


元劇団員で、発声練習を熱心にやらせる。妻子持ち。

 

 

「むらさきのスカートの女」のあらすじ


Cosmopolitan

 


主人公のわたしは、「むらさきのスカートの女」に夢中だ。


この女は定職がないのか街をうろつき回っている。どうやら職を探しているらしいが、なかなか見つからない様子。主人公は心配する。

 

そして主人公は、この女に再三直接話そうとするが、そのたび失敗。

 

だがついに、女はいくつも採用面接に墜ちた後、主人公の働くホテルに、同じ清掃係として採用された。名前は日野といった。

 

かげながら女を観察する主人公。

 

声は小さくて大人しそうな日野は、思いのほか素直で頑張り屋の性格だったのか、挨拶もきちんとするようになるし、仕事も早くてだんだん同僚からも愛されてくる。

 

ところがそんな矢先、スタッフの間で妙な噂が立ち始めた。
なんと日野が所長と付き合っているのではないか?というのだ。

 

主人公も、確かに所長が毎朝日野を自家用車で送っているのを確かめた。
そしてある日、同じ日に有休をとった二人が、腕を組んで歩いているのさえ
見つけてしまう。


二人が付き合っているのは本当だったのだ。所長は妻子ある身なのだが・・・。

これをきっかけに、二人が付き合っているのに気付いた他のスタッフからの、日野の評判はガタ落ちになる・・・・・・。

 

所長のアレだから、時給も他の人よりいいとか、そういう噂までまわるようになる。
そしてあからさまに日野を避けるようになるスタッフ。

 

でも日野本人は、ほとんど意に介していない。
しかしスタッフがしていた所長の噂を逆に耳にしてしまう。

 

いわく、所長は奥さんと仲がわるいと思いきや、全然そんなことはなくて、この前家族で石垣島に旅行に行ってきたばかりだという。
さらに、奥さんのおなかには、今二人目の子供が宿っているというのだ。

これを聞いた日野は意外にも激しい行動に出るのだった・・・・。

 

「むらさきのスカートの女」の感想

何人称?奇妙な語り口

WebRTC conversations



この作品の最大のキモは物語を語るその方法だと思う。


一人称は、「私」が自分のことを語る。
二人称は、「あなた」に呼びかけ
三人称は、「彼」「彼女」について、客観的な位置から語る。

 

日本の芥川賞系純文学小説って、大体、私小説の流れを汲んでいるから、
一人称が多いわけだけど、、、

 

「むらさきのスカートの女」は、このどの図式にも当てはまらない感じがあった。

 

主人公は「私」なんだけど、その実この「私」は全然「私」のことなんか語らないのだ。語ることといえば兎に角「むらさきのスカートの女」のことばかり。

 

しかも、それにしては神様のように何でも見通しているのが変。

例えば、むらさきのスカートの女こと日野が所長とデートした時でも、

十時二十分、喫茶店を出た二人はシャッターの開き始めた通りを腕を組んで歩いた。


十時四十五分、映画が始まった。~所長は始終落ち着きがなかった。ポップコーンを食べたり、コーラを飲んだり、顔をかいたり、むらさきのスカートの女の肩に自分の鼻をぐりぐりと押しつけて肩の匂いを嗅いだり(そう見えた)、首の運動をしたり、大あくびをしたり、挙句の果てにいびきをかいて眠ってしまった。


・・・と、こんな感じで二人がデートする様子を午前中からべったり、映画に行き、本屋で立ち読みし、居酒屋にいき、トイレに行き、、パン屋に行き、所長が日野の部屋に泊まり・・・・。

 

 というところまで、見届けている。しかもただ尾行するだけじゃ、捉えられないような細部まで凝視している・・・。
探偵並みというか探偵以上かも・・・。

 

どう考えても、主人公が実際に体を動かして、尾行したのだけでは理由がつかない、日野の行動を、主人公が知っていることになっている。

 

だから三人称で物語る書き手って、普通は物語の外にいて姿を出さないのだけど、なぜか三人称の書き手が物語の中に主人公として存在しちゃっている感じなのだ。


物語の中にいるからには、制約ができてきて匿名の語り手みたいに、なんでも見通すことにはならないけれど・・・という感じである。

 

だから、一人称と三人称の、両方の特徴を持っている。

 

しかも、審査員もコメントしているように、主人公と「むらさきのスカートの女」=日野は、実は同一人物か??とも思わせるところがあるので、だとしたら自分のことを三人称で外から語っている、、、ということにもなったりして、もっと複雑。

 

この語り口が仕掛けとして面白い。


起承転結が特別に面白いわけではない。

 


「むらさきのスカートの女」が意外と普通なのにビックり。

Conversations I've never had

近所の人は皆知ってるような、目立つ人物というふうに紹介されるから、


どれだけキモくて奇行にあふれた人物なんだ!?


と思うが、意外なほどに普通で無害な存在なのに拍子ぬけする。

ヘンなことといえば、

  1. 昼間からフラフラして、公園のベンチでよくクリームパンを食べている。
  2. 髪がボサボサ
  3. 人混みを、人をすり抜けて進えんでいく姿が異様に速い。
  4. 突撃しようとしても、するっと身をかわされてしまう。

これくらいなのだ。

 

定職がなかなか見つからず、でもけなげにアルバイトを探そうとしていて、見つかったら、挨拶も仕事もちゃんとする・・・。
公園のベンチでは、酔ってくる子供たちと遊んであげる・・・・


という、どっちかというと平和で普通な人物である。

さっきの奇行の最後の
「突撃しようとしても、するっと身をかわされてしまう」の項目で「??」と思った
ひともいるかもしれないが、実は普通のフリした主人公が、奇人なのではないかという疑惑が浮かんでくるのである・・・。

 

主人公は、わざと日野にぶつかろうとするし、自分の存在に日野が気づいているのか確かめるために、わざわざバスの中で日野の鼻をつまんだりまでする。

 

だから日野を「近所で有名人」なんて思っているのは、実は主人公だけで、いたって普通の通りがかりの人に、その人をよく見かけるし、自分と同年代なだけに、自分の何かを投影してしまって妄想しまくっているだけなんではとも思えてくる。

だんだん、どっちが変人なんだか分からないし、同一人物なの??という疑惑が出てくるのは、そういう理由からである。


プロレタリア文学の時代に突入?

Untitled



それにしても本作を読んでいて思ったのは、しみったれた時代になってしまったなあ~~という感慨である・・・。

なんだかもうここ十年くらいというもの、本当にワーキングプアな貧しい日常を描く作品が多いなあと思う。


 『苦役列車』しかり・・・。「コンビニ人間」「ポトスライムの舟」とか「穴」とか・・・。

 

ワーキングプアまでいかなくとも、なんだかうだつの上がらない、プレハブ建築みたいに平坦で喜びのない日本の日常・・・という感じなのだ。
単調な灰色の日常・・・というのか。

 

そして戦前のプロレタリア文学だと、そういう貧しい庶民がマルクス主義とかに染まって、公権力に追われながらも闇で活動する姿とか描いてたりして、まだそこには思想とか人の生き方みたいなものがあったのだが、どうも今の文学には、そういう行動する人々というのは、あまり登場しない。


 デモも行われていたり、町おこししてみたりとかジャーナリストとして、闇を追ったりとか、現実にはそういう人はいるだろうけれど、文学には出てこない。
 皆無気力で、なんでこんなに貧困におちいっているのかとか、大きな見取り図というか想像力は持ち合わせていなくて、ただただ毎日を低空飛行で生きているのである。

 

 でも、そういう姿を見ても、個人的にはあまり面白くないのだ。
 そこに「生命」というのはあるのか??と思ってしまう。

 

いくら綿密にうまく日常を描き出せていても、その日常が、生きる歓びのない日常だというのはどうなんだろうか???


時代の制約というだけではない、日本文学、とりわけ私小説的な純文学の限界を感じざるを得ないのだった・・・。

貧しい日常を見つめる・・・それもありなのかもしれない、でも何かもっと他に方法はないんだろうか。
人はやっぱり本を読むとき、どこか生きる意味とか希望を問いかけたい時に読むのではないかなあ?


暇つぶしということもあるけど、暇つぶしだったら、探偵小説か冒険ものとかSFとかエンタメ系にいけばいいんだよね・・。

 

「むらさきのスカートの女」面白い?つまらない?


結論としては、なんともいえない。
語り口の面白さはあるから、一応最後まで飽きずに読むことはできる。
でも個人的にはそれ以上のものはなかったような・・・。
(なんかいつも芥川賞作品の感想かくとこんな口調になってしまう・・・(;´∀`)

あくまで個人的意見ですー!
個人的には最近の芥川賞受賞作だと「おらおらでひとりいぐも」が頭一つ抜けてたと思うのです・・・。

 

芥川賞受賞作については、こちらのカテゴリーで色んな作品について書いてます!

tyoiniji.hateblo.jp

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