ワーキングプア小説なんだが、悲愴感はあまりなく、カラッとして自分を笑ってるようなとこもあるのは江戸っ子気質ゆえんだろうか?
日雇い労働の若者という底辺労働者を書いてるのに、妙に明るいのはなんでだろう。
西村賢太「苦役列車」。2010年下半期芥川賞受賞。
文学界のサラブレッド、朝吹真理子氏と同時受賞。
芥川賞の受賞当時、「どうして自分には、友達も恋人もいないんだろう」というでかでかとしたコピーに、強面(コワモテ)で、な感じに撮られた西村賢太氏の写真が載っていて、ハードボイルド醸し出してました。
それで私小説だし、暗いんだろうな~~と思って、なんとなく読んでなかったのですが、今回実際手にとってみたら、全然暗くないので吃驚。
んで、例の芥川賞会見で、受賞の連絡があった時は何をされてましたか?の質問に「そろそろ風俗行こうと思ってました」。と、しれっと答える、飄々としたキャラクターで注目されてましたが、あの感じです。
傍から見るとかなり苦役な生活してそうなんだけど、どこか本人は脱力しているというのか、ユーモアやはにかみを絶やさないのです。
※以下、ネタバレあり。
西村賢太「苦役列車」のあらすじ
巻末の作者プロフィール見る限り、主人公の北町貫多は、
江戸川区生まれ、中学卒業と同時に家出、日雇い労働をしながら四畳半の安下宿を、家賃滞納して転々とし・・・
というこの主人公は、西村氏がモデルになった「私小説」のようだ。
父親の犯罪のせいで、「どうせ俺も犯罪者の血が流れている」とぜつぼうして投げやりになってしまったのもあり、
高校にも行かず家出。
とはいえ、中卒だと、アルバイトですら、どこも雇ってくれず。
港でひたすら「冷凍タコ」の積み下ろしをするような日雇いの肉体労働に従事。
しかも、貰った日銭は、その日のうちに使い切ってしまうため、貯金はできないわ、家賃は払えないわで、いつも、スッカンピンである。
単純作業のバイトもだるいが、行かなければ食事も出来ないので、どうしようもなく行っている。友達もいない。恋人もいない。
仕方なしに、仕事が終わると、お金がある日は、一杯飲み屋で一人で飲むのみ。
するうち、同い年の日下部というバイト君が登場。
明るくていい奴。
久々に友達らしきものができて、うきうきする貫多。日下部を飲みやら風俗やらに誘う。
だが日下部に彼女ができた辺りから、関係はギクシャク・・・。日下部の彼女に猥褻な罵倒を浴びせ、日下部からも避けられるようになってしまう。
その上、同僚とも喧嘩をし出入り禁止に。
・・・という、うだつのあがらない、10代にして人生つんでるおっさんみたいな生活を送っている貫多の話であった。
貫多の、意外と繊細・ひねくれ・下衆(ゲス)い人物造型がなんとも趣深い。
貫多は、風俗好きだったり、酒に酔って喧嘩したり、ズボラというか下衆というか、俗っぽくてだらしなくて、まあこれだけだとよく居る人物なんだけど
なぜか自分のことを「ぼく」というのだ。「俺」じゃないのだ。
この似つかわしくない「ぼく」というのが彼の繊細さをよくあらわしてる。
労働者仲間やらを「いかにも教養がなさそうな」みたいな、どストレートで見下す感じがある。
「上品なぼくとは違う」的な構えがちょっとある。どこか貴族心を持っているのである。同時に、マッチョになり過ぎない、なんとなく、とぼけたような気弱なような雰囲気も、この一人称が醸し出しているのである。
底辺の境遇なのに、悲壮感を背負ってなくて、どこかあっけらかんとしていて
深刻ぶってないのが、いい。
昭和戦前の薫りがする文体
今まで読んできた芥川賞七冊の中では、西村賢太が。一番文章が上手いと思った。
渋い私小説が好きのようで、彼らの影響を受けているのだと思うけれど、
語り口調が古風で奥ゆかしい。ちょっと町田康的な、講談めいた感じもあって、とても読みやすい。サービス精神旺盛な文体。
そして、なかなか現代では読めないし使えないような、古風な言葉も、たまに登場して、それがまた味わいを深めている。
「気嵩(きがさ」とか。=意味;負けん気が強いこと。
「鱈腹」とか。=「たらふく」と読む。
なんかこう、古本屋で茶色くなった、戦前の私小説の、活版印刷の文字や、ざらざらした紙の手触りをやらを思い起こさせるような、古めかしい趣があるのだ。
実際、どことなく戦前のプロレタリア小説と、転向小説が混じったような味わいもある。プロレタリア的な労働者の肉体のリアルと、ちょっと自分の敗北に開き直って自分で茶化すかのような転向小説のユーモアと・・・。
主人公につい共感してしまう
しょーもない、見栄や、ちっちゃい、こすい心境も克明にユーモラスに描出していて、あー、せこいけど、こーゆー心の動きってあるよなあ、と思っちゃう。
例えば、友達の日下部が主人公を差し置いて、彼女を作る。
貫多は、その彼女があまり美人だったら、劣等感で凹むので、ださい女であってくれればよいと思う。
で、本当にあまりパッとしない。それで貫多は心の中で、痩せた幽鬼のような女だし、初対面の男と会うときに、白いワンピースを着てきてるのも、野暮だ、とか思って、ちょっとした優越感に浸る。
だが、その彼女が名門大学の学生で、日下部と一緒に「ニューアカ」とか「評論家」とか単語が出てくるようなインテリめいた会話を始めるので、面白くなくなってくる。
この二人は、自分のような底辺の境遇に生まれたものと違うんだ、という、面白くなさである。
こういう心の動きが、感情移入しやすいように描かれている。
心理描写がうまい。
まず、日下部と友情を築くところも、同い年の、感じのよい青年が自分に
声をかけてきてくれて、嬉しくて半分ときめいているような感じの描写も、読んでいてハラハラする。大丈夫かな~、仲良くなれるかな~、と、なぜか
読んでいるこっちまで、嬉しさとはにかみと、が伝わってくる。
こういう読書って、なかなかないぞ、考えてみれば。
テレビで、学歴についての発言が超うけた。
西村賢太さんは、テレビ出演も一時期していたので、探すと色々動画が出てくる。面白いのでついつい一時間くらい眺めてしまったわ。
学歴はいるのかいらないのかトークに出演。
「立命館とか、失礼ですけど、名前聞いたことないですよ・・・?
東大、京大なら分かるけど・・・。それって中卒とおんなじようなもんでしょ?」とか。
「学校で習ったこと?何の役にも立ってないですよ。教養?他のとこでつけりゃいいんですよ。
計算は電卓使えばいいし・・・。歴史知らなくたって生きていける」
などなど発言が痛快であった。
まとめ
そんなわけで、この小説はけっこう評価高いです。
星二つにしてますが、2.5くらいの内訳かも。
兎に角、文章がしっかりしている小説を久し振りに読んだ気がするし、昭和初期の書生さんが語っているかのような、独特の文体が趣ある。
心理描写もうまいです。
心理描写がリアルなのは、私小説の醍醐味というところなのか。
太宰治とか好きな人にも、割といいんじゃないだろうか。
と思ったら、西村氏が傾倒していたという田中英光(1913-1949)の無頼派作家は、太宰の弟子筋だったみたいですね。
てなわけで、文学上、師匠の師匠は太宰治ってことになるのか。
西村賢太さんは、藤澤清造というこれまた今はあまり知られていない、戦前の作家にも私淑しているようだ。