ここ数年の芥川賞の作品は、正直半分眠って読んでいたわけだが・・この作品にはどびゃ!と目を覚まされた。
これは凄い。ベケットを思い出した。昨今ペラペラな小説が多い中、人生の渋み、と共に語り口が超斬新!
面白くて、グイグイ読ませる。
「おらおらでひとりいぐも」は宮沢賢治の「永訣の朝」から取られた一節。
賢治の話なのか?と思いきや、特に関係はなかった・・・。
共通するのは、東北出身という点。東北弁のすさまじい力強さがあふれ出てくる。
そんなわけでレビューします!
「おらおらでひとりいぐも」の登場人物
- 桃子さん
75歳くらいの老女。若い頃に旦那に先立たれ、息子一人と娘一人を育て上げたが、現在は一人で暮らしている。頭の中で、生まれ育った東北弁で語る、色んな声が、にぎやかに語りまくる。
若い頃は従順に人の期待通りに生きてしまったことを後悔することもある。
最近、「おれおれ詐欺」に騙されてしまったらしい。
- 周造
亡くなった旦那。同じ東北出身で、とても美男子だったようだ。しかし心筋梗塞でまだ若いうちに突然に先立ってしまった。
- 直美
桃子さんの娘。40代。しばらく疎遠だったのだが、この頃孫の女の子を連れて、たまに桃子さんの買い物などを手伝いに来ることになった。最近、年取ってみえるようになった。
- 正司
桃子さんの息子。「俺にのしかからないで」と、母の桃子さんを煙たく思い、ほとんど連絡をしてこない。
「おらおらでひとりいぐも」のあらすじ
桃子さんは、新興住宅地にある一軒家で、一人老いの日々を送るお婆さん。
けれど、その頭のなかは想像もつかないほど、賑やかな声で満ちていた。
故郷である東北の言葉で、大勢がわいわいガヤガヤと、頭の中で語っている。
最近は、疎遠だった娘の直美も、孫を連れて手伝いに来てくれるようになり、とても嬉しい桃子さん。だが、直美が孫のために、絵の塾に入れるお金を貸してほしい、と桃子さんに頼むと、すぐに「うん」と即答できなかった。
娘の直美は「お兄ちゃんにはかすのに」と立腹してしまう。
お兄ちゃん(桃子さんの息子の正司)をよそおって、おれおれ詐欺の電話があった時、桃子さんは250万円を振り込んでしまっていたのだった。
息子を自分ががんじがらめにしてしまったのではないかという罪の意識がそうさせたのだった。
また娘の直美にも、自分が母から禁じられていた女の子らしさを身にまとってほしくて、かわいらしいフリルのスカートなどを着せて、いやがられたこともあった。
そして、旦那さんがいた時には、彼のために生きていた。
自分の足で立てなかったから、だれかを支えることで、自分を支えていたのだと桃子さんは回想する。
桃子さんと、そして頭の中の大勢は、他にもあれやこれやと、時に力強く、時に陽気に好き勝手言葉を発しながら、人生をきれぎれに思い出すのだった。
そこでは家族の葛藤や、歌謡曲の断片、愛とは何か、などが、とてもお婆さんである桃子さんからは想像がつかないほど、渦巻き、活発にしゃべりまくるのだった。
東京オリンピックの頃に東北から集団就職で上京して、夫を立てながら二人の子どもを育て、今一人で老境にある・・・という桃子さん。
文藝賞受賞時の選評で、町田康さんが「ここで描かれる女性の生き方や考え方は戦後の庶民の女性の一典型で、こうした人がその時代の局面でどんな価値観でどんなことを考えて行動したかが果敢に描かれていた。」といっている。
戦後の多くの女性の典型が、しかし平凡ではなく、凄まじい筆力と迫力でぶちかまされている。
「おらおらでひとりいぐも」を読んだ感想
作者の若竹千佐子さんとは・・・
古風なお名前だが、若竹さんは、1953年生まれの63or64歳。岩手県遠野市出身の専業主婦とのこと。
これだけの筆力を持ちながら、今まで小説を発表していなかったのも不思議といえば不思議だが、こういう人は、けっこう市井に埋もれているのかもしれない・・・。
「おらおらでひとりいぐも」の意味
この言葉は、宮沢賢治の詩「永訣の朝」に出てくる言葉。
岩手の言葉で「私は私で、一人で行きます」という意味。
賢治の妹トシ子が若くして亡くなる直前に、賢治に向って呟いたという言葉である。
状況的に、一人であの世へ歩いていく、というような意味になるので、なんとも孤独感が漂う言葉ではある。
トシ子の言葉には、他にも「あめゆじゅとてちてけんじゃ」(雨雪を取って来てください、賢治さん)というのもあります。
やはり方言には、感情と思考が絡まりあった、味わい深さがありますね。
で、この小説は特に賢治のことを扱っているわけではないのだけれど、ともかく東北弁のパンチが効いている。若竹さんも賢治と同じイーハトーブ岩手県出身。
そして、この話はお婆さんが自立し、一人で生きて行こう(死んでいこう)とする話なのだった。その決意というか、心構えというか、そういうものとして「おらおらでひとりいぐも」という言葉が置かれているのだろう。
独白なのに異様に賑やか
語り口としては、ちょっとフォークロアといえばフォークロア。
口承文学みたいな感じ。
焚火を囲んで、古老の語りに耳をすましているみたいな。
語り口調は基本的に、独白である。モノローグ。
だから、登場人物はほとんどが、桃子さんの回想の中の人物たち。
これだけ聞くと思い切りつまらないものになりそうなものだが、これが滅茶苦茶面白い。
モノローグといえども、岩手弁の迫力ある音声と、標準語の地の文、それと論争する内面の声が幾つもあることで、一人芝居みたいになっている。
若い頃の自分、もっと年取って腰の曲がった自分なども出てくる。
それから後半に進むにつれ、夫を亡くした時から、死んだ人の声も聴こえるようになったことが明かされる。なので、死者の声も入り乱れている。
亡き夫や、ばあちゃ(祖母)である。
こういう色んな声が放り込まれているので、モノローグなのに、異様な豊饒さが醸し出されている。
書かれている内容が普遍的
「体は動かなくなったが」「その不足を解消するようにでも塩梅するのか、心の声この頃ますます自在」になった桃子さんが語るのは、主に家族の話。
この小説は、ともかく誰もが体験するだろう、普遍的な葛藤や悩みや喜びを、新鮮に描き切っている。その葛藤自体は平凡といえば平凡なのだが、切実さと共に、神話的な迫力を持って描かれているので、ダイレクトに読み手に響いてくる。
- 例えば、老いについて。
自分の老いと娘の老い。
「娘に初めて老いを感じた。背中から肩のあたりひとまわり小さくなって」「自分の老いはさんざ見慣れている。だども娘の老いは見たくない。娘まではせめて娘だけは勘弁してけでがんせというような手すり足すり何かに頼む気持ち」
それと共に、娘が孫を連れてきてくれる、その歳月の変化に涙し、誇らしくなるという気持ち。
- 娘や息子との関係。
桃子さんは、自分の母に、女らしさを出すことを禁じられたから、その代わりに、娘の直美にフリルのスカートを着せたりしようとしていた。自分が「過剰にせき止められいた」ことを「過剰に与えたかった」だけなのではないかと反省する。
また、息子の正司には「かあさん、もうおれにのしかからないで」と言われ、正司は、ほとんど連絡もよこさなくなってしまった。そして、桃子さんは、息子の人生が空虚なのは、自分が彼の生に密着しすぎてしまったからなのではないかと悔いてもいる。
- 旦那との関係。
郷里を同じくする亡夫は、理想の旦那さんだったようだ。
美男子だし、「おら」という東北弁を全然恥ずかしがらないし、素朴で純朴、簡潔。
結婚する時もただ一言「決めっぺ」とだけ言ったという。
この大好きな旦那のために、桃子さんは自分のことは二の次にして尽くしてきたようだ。でも突然に旦那さんは亡くなる。
そして桃子さんは、旦那を支えようとしていたのは、自分が自立できず、支えることで自分が身をもたれかけ、自分を支えていたんだと反省する。
そして実は「人のために生ぎるのはやっぱり苦しい」こともあったのだ「その人に合わせて羽をおりたたみその人に合わせて羽を動かす」ことの苦しさについても語る。
それどころか、夫を立てるふりをしながら、実は「後ろから操る。内面を支配する。男は女の後ろ盾無くしては不安で仕方がねぐなった」
というように、自分が夫を操作していたのではないか、ということにまで思いを巡らうのだった。
こういう風に、親族の間での、普遍的な葛藤が描かれている。
光も影も描かれている。
どことなく、マクベスとかシェイクスピアまで思い出してしまう。
こういう葛藤を思い出しながら、桃子さんは自分が、一番かわいい子どもで、自分がしたいことをして自分のために生きるのだ、と老境でついに光明に照らされた心持になるのだった。
他人のために生きる、それはどこか間違っていると。
(ちょっと単純化してますので実際の小説をお読みください・・汗)
書き方・文体が自由過ぎる!
それから、この作品の魅力になっているのが、ともかく文体が解放されまくっているということ。いわゆる純文学にありがちな、無難な文体ではないのだ。
あえていえば、やはり口承文学的な要素も色濃い町田康なんかと、ちょっと近いかもしれない。
遊び心が凄すぎて、こちらまで、読んでいると文体の面白さだけで、わくわくドキドキ、救われる気持ちになってくる。
例えば一例を挙げてみると、
自分のエゴに打ち克って人の幸せのために自分を犠牲にする、
それがほんとの愛だと、正しい生き方だと信じ込ませる
どこからともなくバックグラウンドミュージック! 際限なく流れる。
愛それは甘く、愛それは強く、愛それは尊く、愛それは気高く、愛、あい、あはぁい、あふぁあいあればこそ世界はひとつ、愛ゆえに人はうつくしー
おら・・・・・・もっと自分を信じればよがった。愛に自分を売り渡さねばよがった
おらもっと自我を強く持って
はぁ、自我とは何だ。分がったようで分がんね言葉使んな
我(ガ)ならば知ってるじょ。ガガガガガガ、ガ。
こんな感じ。
読んでいると、「え?バックグラウンドミュージック??」「ガガガガガ、ガ」???
と、驚き愉快な気分になる。
この後で「誰か、そのうるさいBGMをやめでけれ」とかいう突っ込みくるし(笑)
もちろん、こういう風な小説は他にもあるかもしれないが、なんというか、自由さや破天荒さが突き抜けているように感じた。
他にも
「てへんだあなじょにすべがあぶぶぶぶぶぶっぶぶぶ」
とか、東北弁の迫力も凄すぎる。
描写が上手い!
それから破天荒なだけではなくて、普通に文章が激ウマです。
見事としか言いようがない。
そこらへんの専業作家も舌を巻く上手さと思う。例えば
道はますます険しくて踏みまがうほど、抗う草にこちらも負けまいとして草を漕ぐ。ひと足ひと足かき分け蹴散らし踏み潰し、たわんで跳ね返って足を打つ草々を思うさまねじ伏せる。なぜこれほどまでに草と取っ組むのか。
とか、観察眼と身体感覚とリズムが見事に言葉になっていると思う。
重い話題を扱っているのに明るい!
それから、人間の人生の普遍的なヘビーな側面、シリアスな側面、老いや生死、家族の葛藤などを扱っているのに、妙に底が明るい。
力強い、祝福されるような明るさがあって、そこが一番惹かれた点かもしれない。
相変わらず訳の分からない高揚感は続いていて、(略)気分は最高潮、知らない爺さんとだって、肩を抱き寄せ頬を摺り寄せたいぐらいの勢いで病院の待合室の長椅子におさまったのだった。
こういうふうに、電車の中で「見知らぬ爺さん」とほおずりしちゃいたいほどの明るさである。
突き抜けていると思いませんか??(笑)
「おらおらでひとりいぐも」まとめ
久しぶりに絶賛してしまった。
いやあ、この小説は本物ですよ。読んだ方がいい。
同時受賞の「百年泥」のレビューも、以下のカテゴリーでしちょります。