人形浄瑠璃作者、近松半二の一生を描く伝記小説。
全篇、関西弁がウネウネと繰り出される。
力作かもしれないが、正直なにかが足りない・・・・とは思ってしまった。
あと直木賞は、本屋大賞が出来て以降、なんというかより玄人向きな選考になっているのか?ともチラリと思ったのですが。。。
ではレビューに移ります!
「渦 妹背山婦女庭訓魂結び」の登場人物
- 近松半二
皆知っている、近松門左衛門。けど、同じ近松でも、弟子筋の近松である。
とはいっても門左衛門に直接、教えを乞うていたわけではなく、芝居好きだった父親がたまたま、門左衛門その人から硯を譲り受け、それが半二の手へと渡ったのだった。
父親に似て浄瑠璃小屋に入り浸るようになってしまった半二。うだつのあがらない生活ぶりに、母親の絹からは見捨てられる。
だがついに筆を取り、浄瑠璃作者への道を踏み出した。
ほとんどいつも浄瑠璃のことしか考えていない様子。けれど、のんびり屋でもある。
- 並木正三
半二の弟分的存在だが、その才能と発想の奇抜さは群を抜いていて、一躍、歌舞伎作者として名をあげる。
半二のライバルであり親友的存在。
- お末
半二の幼馴染。一時は半二の兄と恋仲になり、実は駆け落ちしたいほどの思い詰めていた。だが親により反対され、今は違うところに嫁入りした。
気丈な娘。
- 文三郎師匠
半二が雇われている竹本座の人形遣い。名人の域に達している。
それだけあって人形芸への執着がすごい。
以前から、竹本座を抜けて、自分の一座を立ち上げたいと目論んでいる。
半二の才能を見出し、台本を書かせる。
- お佐久
半二が京都で下宿していた煮売り屋の姪。
家の事情もあり、いつやら未婚のまま年増になってしまったが、結婚などしなくてもいいし、尼寺に入ればよい、とのんきに構える。
半二と似たもの同士で、やがて結婚する。
- お三輪
半二の生み出した台本「妹背山婦女庭訓」のヒロイン。
大人と子供の中間にある危うさを持つ、情熱的、悋気の強い乙女。
惚れた男をどこまでも一途に追いかける。
時空を超えて、浄瑠璃や歌舞伎の中に存在してもいる。
「渦 妹背山婦女庭訓魂結び」のあらすじ
儒学者の父、穂積以貫の子として生まれた成章。
幼少期は学業も優秀で、将来が期待されていたのに、
何を間違ったのか、浄瑠璃好きの父に影響されて、
やがて道頓堀の芝居小屋に入り浸り、のんべんだらりと日々を過ごすようになってしまう。
親にはあきれられ、半ば見放された成章だが、雑用係のような仕事をしつつ、
浄瑠璃一座の台本をやがて任されるようになる。
筆名は、近松門左衛門にあやかって、近松半二とした。
半分の近松だけど、二個あるから、一人前というわけだ。
半二は台本作者として、書きまくる人生へと身を投じることになる。
弟分の正三は先に、歌舞伎作者として名をはせるも、半二は下積み生活・・・。
だがやがて、書いた台本が人気を博し、看板作者になることもできる。
晩婚だが、お佐久と所帯も構える。
しかし操浄瑠璃の人気は、段々と歌舞伎へ負けてきた・・。
客の入りはどんどん少なくなり、浄瑠璃の世界で生きていた者達も、どんどん歌舞伎の方へと身を移すようになる。
その中でも、なんとか人形(操)浄瑠璃を立て直そうと、半二はかねてから構想していた大作へ取り掛かるのだった・・・。
この作品には近松半二の幼少期から、人生の幕が閉じるまでが描かれた、伝記となっている。
「渦 妹背山婦女庭訓」を読んだ感想
さて、面白いのかつまらないのかというと、もう一押し!という感じだった。
伝記にそって淡々と物語が描かれているようで、
イマイチ、盛り上がりにかけるのである。
クライマックスがない。
関西弁が特徴的
「渦 妹背山婦女庭訓魂結び」の特徴としては、会話体が、文章の大半を占めていたこと。こりゃ、落語の本かいな!!
と思うほどに、ずっと登場人物がベラベラとしゃべくっている。
なので、割と読みやすいっちゃ読みやすい。
のだけど、冗長なところもあって、もう少し言葉を刈り込んでも良かったのでは?という感じもした。
浄瑠璃はミーハーだったことが面白い
面白かったのは、時々浄瑠璃についての豆知識的なものが取り入れられていること。
今でこそ、高等芸術・・・っていう扱いの人形浄瑠璃だけど、台本が書かれていた当時は、もっとミーハーな、ワイドショー的なものであったらしい・・!
というのは、例えば殺人事件が起こると、すかさずそれに因んだ台本が作られるのである。
ワイドショーが、センセーショナルに犯罪事件や芸能人の色恋沙汰を取り上げるみたいな感じ。
それを題材にすると、やはり観客も押し寄せてくるのだった。
この辺の、大衆の好奇心の生臭さ・・・というのはいつの時代も変わらないかも。
でも、今の人形浄瑠璃(文楽)が、ワイドショーネタをいきなり取り上げだしたら、かなり面白いと思う!
ぶっ飛んでいるけど・・・。
でも昔年は、それが普通だったのである。
「文楽」と歌舞伎の差も面白い
「歌舞伎」というと、現代ではやっぱり高等芸術で、「スーパー歌舞伎」とかも確かにあるけれど、なんだか堅苦しいイメージがある。
けれど、浄瑠璃に比べると、歌舞伎は生身の分厚い肉体の匂いやら熱やら汗やらが織り成す世界。
そして、なんといっても歌舞伎は台本作者よりも、役者が舞台を支配する。
台詞を勝手にアレンジしたり、振り付けた動作からは外れて、それぞれの見得を切ったりするらしい。
客も、脚本というよりは、どちらかといえば、役者の魅力を見に来ているという。
今からすると、「浄瑠璃」「歌舞伎」とかなんとなく一緒にカテゴライズしてしまうけれど、結構はっきりと特色が違っていたらしい。
「書くこと」についてひたすら書かれている?
この本は一応伝記なのだが、あまり主人公の私生活とかには立ち入らない。
結婚も出世も、淡々と、さりげなエピソードとして入って来るだけ。
そして、語り口調が大半なのだが、ここで語られていることの多くが、
「書くこと」や「文学論」「芸」についての話である。
ここが期待外れなところではあった。
そういう哲学的な話は、小説じゃなくても出来るのでは?と思ったからである。
文楽の人形の美しさ、静けさ、についても間接的には語られるのだけど、もっと体感として書き込んで欲しかったと思う。
人形浄瑠璃をすでに見たことあって、入れ込んでいる人なら、想像ついて面白いのかもしれないが、
浄瑠璃を見たことない人にとっては、「浄瑠璃はすごい!」ということは読み取れても、それを感情や感覚として体感させてもらうことがないのが惜しい気がしたのである。
直木賞は玄人好みの傾向なりつつある?
で、思ったのは、芥川賞は純文学で、直木賞はエンタメ系で・・・・という区分けがあったように思うのだが、直木賞がエンタメというのは、どうも怪しいなあと思い出した。
「本屋大賞」と比べてしまうと、どうしても直木賞の作品の方が素人にはとっつきにくいのだ・・・。
読んで純粋に「読むことの快楽」を提供してくれるのは「本屋大賞」が一番上なんではないかなー。少なくとも最近の傾向では。
今時「人形浄瑠璃」の話を書くというのは稀有だし、それはそれで貴重な気もするし、去年の「宝島」にしても、沖縄の地政学的歴史をたっぷり語った力作だったので、価値はある気はする・・。
けど、資料的価値だけではなくて、もう少し読むことそのものの楽しさも味わいたい・・・とか思った。
いや、個人的意見なので、純粋に楽しんで読める人も世間には沢山いるんだろうと思う。思うんだけど、やはり個人的には何か物足りなさを感じてしまった・・・。