2015年上半期芥川賞。九州のど田舎の離島とカナダの旅の記憶が交錯して、ここではないどこかの光が立ち上がる、マジカルな小説。
星は、二つにしてますが、細かくいえば、1.7くらいかなあ。
小野さんは、立教大学の先生なんですね。東京大学に入り、そのまま東大大学院を卒業し、パリでも学位を取ってらっしゃる。
・・・まばゆい経歴よのう!
最近の文学賞受賞者には、大学院生や教員がチラホラいますな。
なんとなく、書く時間を自由に・・でもなくても、それなりに作り出せる職業の人が、作家を目指すのに有利な世の中なのかなあ?
一般の会社勤め(正社員)だと、執筆時間を捻出するのに、工夫しなきゃいけないだろうなあ。
睡眠時間か、友達や家族との時間を犠牲にしなきゃあかんだろう。
それはともあれ。
小野正嗣「九年前の祈り」あらすじ
※ 以下、ネタバレあり
九州、大分県の小さな離島出身のシングルマザー、さなえは、四歳になる息子の希(けんと)
を連れて、地元の島に戻ってくる。
結婚していたフェルナンデスと別れたためだ。
元夫のフェルナンデスは、哀愁のある目をしたカナダ人で、もともと大学院で修士号を取ったあと、日本で金融の会社に勤めていた。
が、だんだん家に帰ってこなくなる。よそに恋人が出来てしまったのは明らかだった。
さなえは、女性が酒やたばこをのんでると、眉をひそめるよーなとこのある、
故郷の田舎臭さがニガテでもあった。
しかし、島のおばちゃんたちの明るさには救われている。
その一人のミツさんの息子さんが重病で入院してしまった。
そこで、物語は、さなえが九年前に、ミツさんも含む、島のおばちゃんらと一緒に旅行したカナダ旅行の記憶に遡り、また、島の現実とも行き来する。
息子の希敏(けびん)は、普通の子供とは違う。
小説中でハッキリ名指されないが、たぶん自閉症とか、そこらへんだろう。
もう四歳になるけど、話しかけられても反応しないし、変化を極端に嫌うので、
車に乗せてどこかに連れていこうとしたときや、眠りを邪魔された時などに、
「ちぎれたミミズ」のように
泣きわめいて、のたうちまわり、手がつけられなくなってしまう。
ただケビンは、金髪、くりくりカールした髪の毛に、綺麗に整った天使のような外見をしている。
さなえは白昼夢の中で、みっちゃん姉(ミツさん)が、ケビンの手を引いて、どこかへ連れていってくれる情景を見たりする。
ケビンは常に放心しているような感じで、最後に桟橋から海に落ちそうになるが、
間一髪でさなえがつかまえて抱きとめる。
ケビンの髪は暖かく、潮の香に満ちている。
風景描写と光が美しく、マジック・リアリズム入ってる。
島の話のせいか、常にいつも、キラキラとまぶしく輝く海の気配が文章全体を包んでいる。
そして、やはり小野さんがフランス文学を読み込んできたからなのだろう、日本の土着の光景を描いていても、妙にそれが湿気っぽい日本のことでなく、カラッと爽やかな、西洋の、石造りの街で育つような感性で描かれているところがある。
それで、読んでいてとってもすがすがしい。
なんかどっか、西洋の教会みたいな天上的な匂いがするんだよね。
例えば、さなえの故郷の文島の、とある砂浜では水辺に小さな祠があって、その砂浜で貝殻を拾うと、厄除けになるという。
さなえのお母さんも、まだまだ迷信深い世代みたいで、
何か良いことがあると、「あの貝殻のおかげかね」「ご先祖様にちゃんと祈っているご加護じゃね」
みたいにいう。
で、これは文体のなせるわざなのか、そういう風習や宗教心が、泥臭くなくって、
ガルシア・マルケスの「マジック・リアリズム」の手法みたく、
精霊やらご先祖の霊やらという民間信仰の登場人物たちが、妙にきらきら爽やかな輝きと共に、日常に息づいているような雰囲気を醸し出している。
たぶん、やはり小野さんの持つフランス文学の素養が、フィルターになってるんだと思う。
濃し出された風景は、外国文学に出てくる、素敵なヨーロッパの田舎みたいなムードをたたえている。
そこが、ピニャ的には一番気に入ったポイントだった。
これはフランス文学というのに関わらず、もしかしたら現代の若い世代の目で見ている、リニューアルされた田舎の風景なのかもしれない。
小説中でも、過疎の島なのに、ネット上で噂をききつけた観光客が、山のてっぺんから海を眺めに地元の渡し船に乗り込んできてる描写があった。
今、IターンとかUターンする人々が増えてきているけれど、
そういう人たちは一回、故郷を出て、出た時には、田舎特有の風習などに文句を持っていても、都会や外国に行って、違う環境を味わって、自分の故郷の良さを再発見する。
新鮮な魅力を持ったものとして、あらたに出会い直すわけだ。
それで戻っていく。
さなえは、積極的にUターンしたわけではなさそうだが、
そういう、帰郷者が見る、新鮮な目でとらえかえされた故郷のみずみずしさが描かれている感じがした。
おばちゃんらの、明るさに救われる
大分の島のおばちゃん達は、カナダ旅行の時でも、臆せずに大きな声で方言でさえずりまくる。
それが実にほがらか。
飛行機の中でも、前方の座席から赤ちゃんの鳴き声が聞こえてきても、
「子供は泣くもんたい」
「元気な証拠」
と五人くらいで大きな声で喋る。
赤ちゃんの声に対する舌打ちが聞こえても、それを隠すように、かばうようにしゃべる。
このおばちゃん達は「光だ」というような描写もあった。
ここらへん、芥川賞選考委員の一人だった山田詠美が、「女の人の描き方に幻想を感じる」「男の描いた理想の女性像でしらけてしまう」
ともいった点でもあるのだろう。
確かに、この作品は息子のケビン以外、ほぼ女性が登場して、しかも一人も嫌な人がいない。
(田舎独特の、未婚者やら女の酒煙草に対する反感はあるようだが・・)
思いついたことを何でも口にしてしまうようなあけっぴろげな感じ。
「わりゃー若はげね」(作中ではちゃんとした大分弁)とか。わるぎなく。
確かに、色々裏側もあるのだと思うけれど
こうしたあけっぴろげさには、わたくしも、田舎にいくとずいぶんと救われることがあるから、そこが希望になるのは分かる。
いつも本音と建て前の世界で生きてて、常に上司の顔色伺っているような日常を送っていると特に、おばちゃんおじちゃんらの、あまりのオープンマインドさ加減に、肩の荷がおりたような気分になる。
もっとドロドロした裏事情や、性やらを描こうと思えば描けるんだろうが、
たぶんこの作品はそういうものを目指しているわけでもないだろう。
カナダの教会、大分の砂浜をつなぐ庶民の信仰心
九年前は、カナダ旅行中、はぐれないよう人込みのなかで皆で手をつないでいたのだが、二人のメンバーがいなくなってしまい、残りの5人くらいは、現地の教会で、地元の人の真似して膝まづき、二人が戻ってくるように祈ってみる。
九年後の大分では、ミツさんの息子さんが回復するようにと、砂浜でさなえと息子ケビンは、厄払い伝説にあやかって貝を集める。
異国の教会と、日本の九州の砂浜のちょっとした祠が、ここでつながる。
地元の人の信仰を集めるものとして。
カナダの旅の記憶と、九州ローカルの小さい島の風景なんて、まずく書くと、
かなりチグハグになりそうだけれど、こういう感じでモチーフがすんなりうまく馴染んで繋げられているのは、うまいところだ。
まとめ
日本の田舎の風景を西洋的な光で照らしだして、素敵な場所として浮かび上がらせた、心象風景小説というべきか。
個人的には、海辺でおばちゃん達がいて、波の光がキラキラしていて、というとても好きなセッティングだったので、そこそこ楽しめた。
ただ、心象風景スケッチをした掌編という趣もあり、小説としては、やや物足りなさも残るのは事実。
(なんか、芥川賞感想シリーズで大抵、物足りないといってる気もするが汗
あれだな、天下の芥川賞といえども、毎年二回も誰かが選ばれているわけで、
それは毎回傑作とはいかない、だいたい、及第点かな位のところの小説が多いのは
仕方ないんだろうね)