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村上春樹最新インタビュー「みみずくは黄昏に飛びたつ」を読んだ感想(聞き手川上未映子)

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 村上春樹の、書下ろしならぬ、語りおろしインタビュー発売!

「騎士団長殺し」のこと、それに女性の視点から、フェミニズムっぽいことについても春樹に突っ込みが入るということで、興味が出て読んでみたのだった。

 何しろ、春樹といえば女性のムネの描写が多過ぎるしな(??)

 春樹ファンや、文学青年、文学少女(ん、なぜ青女という言葉は存在しないか⁉オンナは少女から飛び越えていきなり成熟した女性になるとみなされちゃうのか?とやや違和ともあれ)以外には、それほど面白くないような気はした。

 でも、「ふむふむ」「なるほどお」という部分もポチポチあったので、とりあえず個人的に面白かった点をまとめておきます。

 

 

村上春樹に学ぶ小説の書き方

「長編小説はワンテーマでは絶対に書けない」

いくつかのテーマが複合的に絡み合っていかないと成り立たない。長ければ長くなるほど、その要素はたくさんないといけなくて、少なくとも僕の出だしは三つあって、三つあると三角測量みたいな感じで立体的に進めていけるわけ、物事が。ところが一つか二つしか構成要素がないと、話はどこかで必ず分厚い壁に突き当たってしまいます。

  春樹といえば、やはり短編の名手から出発したという印象があります。短い物語の場合は、ワンテーマ、ワンモチーフでスケッチみたいに書き上げられても、長編にするには、複数の場所、複数の人物、複数の謎が重層的に絡み合わないと、燃料としては弱いようです。

 なので、この三つくらいのモチーフを得るために三年くらい必要、それに毎日机に向かって書き続ける体力も必要で、これが揃った時に作家は書き始めるのだとか。

 短編が自転車だとしたら、長編は重量機関車みたいなもので、石炭や旅客、ボーイやメイド、幾つもの連結されてはじめて驀進してく、みたいなもんでしょうか。

 考えてみれば、春樹の長編(特に最近の)には謎が多い。短編って、結末を謎のままサラッと終わってゆるされますが、ふつうの文学作品だと、長編だと以外と、謎が最後に解決するか、少なくとも一つ、二つに絞られる感じがあります。

 春樹の作品は、そうでなくて、謎が物語のあちらこちらでバラバラに置き去りにされたままになることが多い。これは、実は一つ一つが短編として成立しそうなモチーフを複合的に組み合わせて、しかも、それらを独立した物語のままに放置しておく、という手法から来ているのかもしれませんね・・・。

 

村上春樹はグレン・グールド風に書いている?

 春樹といえば、プロットや筋をあらかじめ考えずに、書きながら自分でもどうにか分からないまま物語を作っていくという手法で有名です。

 このことを春樹は伝説のピアニスト、グールドの奏法と連想づけていました。グールドの曲をずっと聞いていると、右手と左手がまったくバラバラにやりたいことをやって演奏してて、それでも奇跡的に、合わせてみると一つになるというふうに聞こえるそうです。

 こういう乖離している状況というのは、ある意味なにか危険を感じさせるので人を惹きつけるのではないかと・・・。でもこれは、なかなか真似できない書き方かもしれません・・・(?)

 でも、確かに頭の中でだけ組み立てたプロットには、意外性がなくて退屈するということも往々にしてありそうで、プロットを立てても、ある意味それをまったく忘れるような書き方というのは心構えとしてヒントになるかも。

 

ともかく「文体」の構築が大切

さっき川上さんが言った、プランなしで書いていて、どこにも行ってないという人たちはきっと、その「今が時だ」という時がつかめてないんだよね。もう一つはたぶん、文体が出来上がっていないんじゃないかな。文体というのはすごく大事だから。自分の文体を持たずに地下深くに行くことはできない。それはすごく危険です。文体は命綱のようなものだから。

 

文体はどんどん変化していきます。作家は生きているし、文体だってそれに合わせて生きて呼吸しています。だから日々変化を遂げているはずです。細胞が入れ替わるみたいに。その変化を絶えずアップデートしておくことが大事です。そうしないと自分の手から離れていってしまう。

 

 春樹が前から変わらずに言っているのは、「文体」の大切さ。どこか違う本でも、一行一行、ねじを締めるみたいにして言葉を書いていって、それでおのずと続きが浮かび上がってくる、というように話してました。

 

日本の純文学への違和

 そして、日本の純文学は昔から、「文体」を無視していて、これに違和感があったようです。特にデビュー時はともかく小説は「テーマ」ありきで、社会問題なり思想なり何かのテーマを設定してそれを描くことが至上。文体はそんなに大切にされていなかったということ。

 今でも、文芸誌を開くと、どの作品も文体がちゃんと作られているものがないと感じるとか。確かに、冒頭の数行だけ読んで、「これはあの作家の文体!」とすぐに分かるような人って少ないですね。町田康とか保坂和志とかくらいしかいないかも??

 確かに、文体って、読者との距離感や、作品の匂いや体温を感じさせる重要な部分だなあとは思います。純粋に物語の面白さだけで展開していくエンタメや直木賞系の作品はいいかもしれませんが、私も個人的に、つるんとした標準語というか、規格化された言葉で書かれた作品には、どこか退屈さを感じてしまうとこもあります。

 でもこれも、書いて練り上げていくしかないんでしょね・・。春樹は、ともかく作家は文体がエッセンシャルで、たとえ同じモチーフを繰り返し描き続けても、文体さえ新たなものへと生まれ変わり続ければ、それで執筆していけるんだ、と言ってました。 

 あと、春樹は日本的な「私小説」がニガテというか、あまり興味がないようです。人間心理を家にたとえると、内面心理のドロドロを描く「私小説」は地下一階、その下の集合無意識は地下二階で、この地下二階までおりるものに興味があるんだと。

 確かに、内面のドロドロさえ正直に吐露しちゃいけなかったり、そもそも個人的自我がまだ目新しかった、近代小説の黎明期には、地下一階も有効だったんでしょうが、現代ではそういう葛藤は手垢がついてしまった感はありますよね。地下二階以降の世界は、神話などもっと古代的な古いものへと繋がっていく世界なんでしょうが、こっちの方が普遍的に続いていくものなのかもしれません。

 

サービス精神がだいじ?

  春樹氏は、レイモンド・チャンドラーの比喩「私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい」(とあともう一つ)を挙げて、これが僕の文章の書き方のモデル、といってます。これで結構いい文章書けると。

 これって、個人的に解釈してみると、やっぱり「サービス精神」ってことなのかもですね・・・。春樹氏は、語り手のことを、先史時代とかに、夜洞窟の中で、皆に「なんか面白い話して~」とせがまれて、「ではひとつ・・」と話しはじめる語り手を、小説家の原像としてイメージしてました。これ面白かった。

 対面で、一人ひとりと、生のコミュニケーションをとって、時にくすりと笑わせるようなユーモア、ちょっとした驚きをまじえながら話すっていうことですね。

 紙に書く場合は、読者はもちろんその場にいないわけなんですけど、想定読者を退屈させないように、気遣いつつ語る、っていうのは大切かも。

 

「悪」をガイドラインにして春樹作品を読む

  これは、なかなか卓見だなあと思ったのは、川上未映子が提案している「悪をガイドラインにして春樹を読む」という観点。

 確かに、村上春樹作品には、特に「アンダーグラウンド」以降には、何か非常に不気味なものの影が付き纏っているように思う。「騎士団長殺し」だと、スバル・フォレスターの男。それに色免の秘める不可解で不気味な側面…。

 川上さんは『ねじまき鳥クロニクル』で「『憎む』というコミットメントが入ってくる」これは重要な変化ではないかと、指摘されていた。

 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の「やみくろ」なんかは、確かにもっと単なる「怪物」というか「動物」というか、どっちかといえば割と動物的な存在だ。(確かに気持ち悪いけど、HPラヴクラフトのクトゥルー神話的な気持ちわるさが強いかも??)

 それが、次第に内面的、心理的な気持ちわるさになってくる。これは初期作品からもちらちら垣間見えたものだけれど、「鏡の中の自分の邪悪な顔」に恐怖する、というやつだ。分身的な怖さ。怪物というよりは、自分の奥深くにひそんでいる、不可解なものへの恐れである。

 ここには、「騎士団長殺し」にもちらっと出てきた、日本人が戦争の被害者のサイドにばかりたって、自分たちの邪悪な加害者性について考えてこなかったことへ春樹が言及する理由があるんだろう。

 色んな悪の様態を考えてみると、「アフターダーク」では、物語の語り手の視点自体が非人称で、なんともいえない爬虫類的な冷酷さを感じさせた。物語世界自体が、じっとり冷たいものに覆われているような。この系列だと、「1Q84」なんかにも感じさせる。透明な、非人称の悪意みたいなもの。

 「ねじまき鳥」では義理の兄の綿谷ノボルにも、こういう不気味な悪の雰囲気がつきまとっている。それに対して、主人公はもっと人間的な悪、ノボルを「憎む」という仕方で対立するのだった。

 村上さんが本書「みみずく~」の終わりくらいでまた悪の話をする。村上さんは「システム」というものに悪を感じるとのこと。

 社会システム、国家、教育、様々なシステムは長所もあるが「悪」も含んでいて、それは「すごく個人主義」な春樹にとっては受け入れがたいもののようだ。このことと、不気味な非人称の悪は、繋がっているのかも。

 システムって、最初は人間が作り出したものだけれど、いったんスタートしてしまえば自動でひたすら動き出す、感情のない機械だ。今日本でも破綻しまくってる官僚システムしかり・・・。そこでは誰もはっきり責任を取らなくていい。

 春樹は、作品の中で、それへの批判について書き込み過ぎると政治的メッセージになちゃうので、あまりやりたくないという。むしろ、「海辺のカフカ」の授賞式で、イスラエルで語ったみたいに、作品とは別のところでステートメントしていきたい、と言っている。

 確かに、その方が良いような気もする。

 ただ一読者としては、「騎士団長殺し」でも太平洋戦争や、震災の話が出つつ、イマイチ消化不良に終わってしまっている側面もある気がするので、ここらへんを、今後物語の中でどういい感じで表現していくことができるのか、それともやっぱり、つま先だけ突っ込んでみるくらいの軽いジャブで終えるのか(必ずしもそれが悪いこととは思わないけれど)に興味がある・・・。

 

春樹作品への疑問が幾つか解けた 

どうして主人公は30代なのか?

 春樹は1949年生まれ、御年なんと67歳(今書いてビックリした。え、もう少しで70歳!??)。

 でもご存じのとおり、春樹作品といえば、ともかく主人公は青年だ。大分実年齢と乖離している。この点については春樹氏自身も、ムリを感じているらしく・・、それでだんだん「僕」という一人称よりも、三人称を使うようになっていたらしい。そして「騎士団長殺し」では「私」。

 たしかに「私」という、中高年紳士的な人称には、今回新しい可能性を感じさせるものがあった。(主人公は30代後半の設定だけど、実際55歳くらいのロマンスグレイの紳士・・色免のような・・を感じさせた)

 けれどもやはり、30代を書きたいのだそうだ。なぜかというと

 

まだ人生の中間地帯に留まっている。(略)もう若くはないし、まだ中年の域にも達してない。ある程度自分というものを持ってるけど、まだ凝り固まってはいないし、迷いもある。どこに進むのかも自由。(略)まだ選べるわけじゃないですか。そういう「どちらにも傾ける」可能性を持った存在を、僕は小説的に必要としてるんだと思うな。

っていうことだったようです!

ウーン確かに、春樹作品の主人公は、いつも迷っている、宙ぶらりんの状態、人生の岐路、あるいはモラトリアム、といった地帯にいますよね。まあいくら年齢を重ねても、人間は、新たな道へ歩むことはできると思いますが、なんとなく大勢の人はまだ30代の時が一番、可変性があるっていうことなんでしょうね。

 

春樹の「女性」イメージってあまりにステレオタイプじゃない??

 これは私も常々疑問に思っていた点なので、川上さんに聞いてもらえて良かった。

春樹作品の中の女性って、人間っていうよりは、単なる道具・・というと言葉遣いは悪いけれど、性的な側面ばかり強調されて、中身はすっからかんな気がしていたからだ。

 で、これはいがいとすんなり春樹氏が認めている部分があった。

春樹氏は私小説的な内面には興味がないので、キャラの掘り下げは浅い、表面的なものだと思う・・・というようなことを自分で言っていた・・!ようは、登場人物はインターフェースみたいなものだと。

 だからやっぱり、あくまで視点は男性主人公にあって、男性主人公との関係性の中でしか女性キャラは動かず、どうしても主人公は女性を性的に見てしまうから、まあ仕方ないということになりそうだ・・・。

 ここら辺は、もう春樹氏の世代的な限界もあるのかもしれない。「僕は女の人は男の人とは違う特性を持っていると思う」的な発言も本書の中では見られた。これは、男女雇用機会均等法以前の世代の大半の一般的認識であろう・・・。

 かなりフェミニスト的観点からは異論が私にもあるのだが、もうどうしようもなさそうだ汗 ただ、春樹氏は、作家としての力量が、この固定観念というか、(それこそ春樹氏のいやがるシステムのひとつ、ジェンダーシステムなのだが)を超越する瞬間はあるからすごい。それは、「海辺のカフカ」の図書館にいる、元は女性なんだけれど実は心は男性で、でもゲイというお兄さんとか、そういうリアルに複雑な存在が、ぽんと登場するあたり。

 

感想いったんおわり

 なんかすごく長くなってしまったので、いったん、こんなところで感想はおわりにしておく。正直、川上未映子さんには、もうちょっとズンズン突っ込んで欲しいなあ~というところも多々あったのだけど、やっぱり女性という立場から、ある程度今までのインタビュアーが聞きにくかったところも、聞いてはくれている。

 そんなわけで春樹ファンや、文学ファンは読んでみるといいかも。

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