ドゥルーズとガタリ「千のプラトー」の読解に取り組んでいます。なるべく分かりやすい、読み解きができることを目指してます。
読者仲間の意見として参照してください。
本は、『千のプラトー』河出書房新社、1994年を参照しています。
第一章:リゾーム
ウイルス
リゾーム(地下茎・根茎)のイメージとして一番わかりやすかったのは、ウイルスについての記述だった。(P23)
ウイルスは、ある種の条件では、生殖細胞に入り込んで、遺伝子の一部として子孫に伝えられることもある。
それから、そのウイルスが逃れ出て、まったく別の動物の細胞にはいりこみ、その時に前の宿主の遺伝情報を、次の宿主に伝えることもあるとな。
具体例としては、狒々のDNAが家猫のDNAに二重結合する場合の研究に言及されている。
つまり、進化の系統樹(ツリー)というモデルから、はみ出したところで、
ゲリラ的(??)に別種の生物同士をむすびつけ、変化させるアクターとして働いてるのである。
ツリーというのは、魚から爬虫類、それから鳥類・・・とか、進化的にだんだん形態をかえて変化していく系統樹。それとはちがうジャンピングな変化を、ウイルスはもたらす・・・と。
リゾームとは、そういうもの「反系譜」だとな。
地図
それから「地図」とユーのも分かりやすい。
リゾームは「複写」ではなく「地図」だとな。
つまり、あるべき現実をそのまま写し取るとゆーよりかは、地図作成者によって色んなマッピングがあり得るということか。
子供の時、近所のオリジナル地図とか作りませんでしたか?
あれって、登れる木、こわい犬がいる家、グミの実がとれる垣根。。。とか、なんやら子供の生きるその存在と関わるような仕方で作られますよね。
それは「現実とじかにつながった実験」の方に向いていて、「地図は自己に閉じこもった無意識を複製するのではなく、無意識を構築する」とD&Gは言ってます。(P25)
地図は開かれたものであり、そのあらゆる次元において接続可能なもの、分解可能、裏返し可能なものであり、たえず変更を受け入れることが可能なものである。
リゾームは「無意識の生産そのもの」らしいです。
そいから「地図」と「複写」、「リゾーム」と「ツリー」を対立させるからといって、これは二項対立させたいのではなく、リゾームがツリーに、ツリーがリゾームへと変化していく契機は普段にあるともいってます。
一つともう一つをまきこんでいく「中間的運動」らしいです。
アメリカとオランダ
地理に言及してるのも面白い。
アメリカはリゾームとしても見れる。
というのは、ヨーロッパから発生しつつも分離して、独特のエコシステムを作り上げているから、そういっているようで。
アメリカはある意味資本主義の象徴としても書かれている。
インディアンの駆逐、移民の連続的流入、資本による巨大な水路と権力・・・アメリカはツリーでありリゾーム、と言ってます。
それから、なぜかオランダについて次のように。
アムステルダム、まったく根をもたない都市、茎ー運河をそなえたリゾームー都市、そこでは有用性が、商業的戦争機械と関係しつつ、再々の狂気と結びついている。
オランダについてはこれ以上説明していないが、オランダに半年留学したオランダ好きの一人としては気になった。
貿易の中心地、帝国主義、多様性などのことに触れているのかな。
とりあえずこの章は以上。
第二章:狼はただ一匹か数匹か?
2章は、ともかくなんでもかんでも「去勢」とかのオイディプスコンプレックスに結び付けて解釈しようとする、フロイト先生の精神分析に突っ込みを入れまくる章。
なんで、そのあたりは痛快ではある。
狼であることは群れであること
フロイトの「狼男」と呼ばれるある患者は、狼が7匹木の上にいる夢を見る。
フロイトは、これを無理くりに、「七匹なら子ヤギの童話だろう」(あの時計に隠れた子ヤギたちかな?)となぜか結び付け、そこから「去勢され去勢する者である狼=パパ」の話に持ち込んでしまう。
これに対して、D&Gは「狼は狼じゃ!!」と異議をとなえてる。
それは何か’(パパとか)を表象として代理してるのではなく、「一つの私は感じる」「私は自分が狼になるのを感じる」なのだと。
群れ、多様体、粒子としての無意識
そのさい、「狼になること」について重要なのは「群衆的状況」だという。
狼は群れでいる。それは「多様体の瞬間的な把握」だという。
無意識は「多様体」であるとも続ける。
去勢、欠如、代理――何という物語だろう。これは無意識の形成物としての多様体について何もわかっていないあまりに意識的な愚かものがしゃべった物語なのだ。
一匹の狼、また一つの孔も無意識というもののさまざまな粒子であり、分子的多様体の要素としての粒子、粒子の生産、粒子の行程なのだ。(P49)
D&Gが「粒子」というのは、もしかしてニーチェの影響もあるのかな?と個人的には思ったところ。
ニーチェは、ある感情や思念の筋があるのではなく、怒っていても、心の中には、同時に悲しみ、喜び、不安、あるいは名付けることのできない、ありとあらゆる感情、または未分化な情動の粒子が渦巻いていて、その中で力が強いやつが、人間の意識にはっきり捉えれる・・・というようなことを書いてます。
思考もそうで、ある状況に対しては、ありとあらゆる考えられるかぎりの意識や思念が渦巻いている。その中で目立つものが意識に顕在化してくる・・・みたいなイメージである。
(ただこれは筆者のうろ覚えなんで、正確性は保証できませぬ。。(;'∀') 詳しくはニーチェをお読みください。。)
D&Gも、そうした流れで無意識を捉えているように思われた。フロイトはなんでも、「男根」「去勢」が隠された真実として夢を解釈してしまうのだが、そういう解釈は、あくまで、ありうる無数の潜在的意味の一つに過ぎない、と言いたいのではないだろうか。
人の欲望(リビドー)はもっと自由で、そういう無数の潜在的意味のどれにでも注がれる可能性があると、そう言いたいっぽい。
カネッティの「群衆」と「群れ」
ここでD&Gは、またツリーとリゾームを対比させている。
ツリー状の多様体が、統一化や組織化可能なものであるのに対し、リゾーム状の多様体は、「リビドー的、無意識的、分子的、強度(内包)的」で「性質が変化することなしに分割されない粒子からなり、さまざまな距離からなる多様体」だとしている。
これだけだと、なんだか分かりづらい・・・。
そこでD&Gはカネッティの「群衆/群れ」の区別を持ち出している。
エリアス・カネッティは、群衆(mass)と群れ(meute)を区別していた。群れの方がリゾーム的多様体に重ねられている。
群衆の特性は「大きな量、構成員の分割可能性および一様性、集中状態、総体の社会性、階層的な方向づけの単一性、領土性または領土化の組織、諸々の記号の発信」
このリーダーは、獲得したものを統合し、蓄積化=資本化するという。
これに対して群れの特性は「数量の乏しさまたは制約、散逸状態、分解不能で可変的な距離、さまざまな質的変容、残余または超過としての不当性、固定的な全体かや階層化が不可能なこと、さまざまな方向のブラウン運動的な変動、脱領土化線の数々、もろもろの粒子の放射」
群れや徒党のリーダーは一手一手に勝負をかけるとされる。そして、群れの中で各人は、他のものたちと共にありながら単独であり、徒党に加わりつつ自分の関心事に集中する。
これに対して、群衆では個体はグループ、リーダーに同一化されるという。
ツリー的な多様体(群衆)のモデルは、会社とか軍隊とか垂直統合的な指令系統がある組織が一番近いかもしれない。
これに対してリゾーム的な多様体(群れ)のモデルは、ゲリラとか狩人の少人数グループとか、RPGのパーティとか(??)かなあ。あるいは、デモパレードなんかもあげられるかも。
そこでは、ある一人の偶然的な行動が、思いもかけない方向にパーティ全体を引っ張って行ったりする。
(RPGだったら、あるキャラの人生エピソードで謎の冒険が始まったり、デモだったら、熱狂した一人の踏み越えた線により行動が一挙に一線を超えるとか)
確かに、リゾーム的組織では、ある構成員をぬきにしてしまうと、全体へのインパクトがより大きくなる感じはする。
ただここでも、D&Gはやはり、群衆が群れになり、群れが群衆になる契機はいつでも存在しているとして、それらを完全な二項に分けることはしていない。あくまでも、傾向の両極ということか。
余談:オイディプスコンプレックスについて
余談ですがオイディプスコンプレックスとゆーのは、やはり、家父長制の時代・地域だからこそ、あてはまる理論であり、普遍的では全然ないのだろうと思う。
つまりは権力を持っている人(男性)がいて、それが持っていて他の人(女性)が持ってないものは何かと考えると、ペニスが出てきたという話。
子どもは、お母さんがペニスを持ってないのを発見し、「去勢されたんだ!」と恐怖し、それゆえ、ペニスを去勢されることを恐れるという設定を精神分析はしてる。
だから、女性が政治家や経営者の8~9割を占める、女権社会だったら、おそらく、おっぱいが特別なものになってたんじゃないかと思うww
「おっぱい」が権力の象徴であり、それがないことを恐れるというw
そんな精神分析が生まれていたかもしれない。
だから、権力羨望はあっても女性は「ペニス羨望」とか抱かないと思う・・・。だって、じゃまそうなんだもん(笑)
ここらへんはオノヨーコが「男性は、子宮羨望があるのよ」とやり返してて面白い。