前回に続いて、
今回は SNSなどが文学の代りになっている、これからの時代の表現についても考察されています。
また長文だし、それこそ、ツイートの120文字くらいを気軽に読むこの時代に誰が読むんだという・・・・(;^ω^)
まあ、これを読む人は豪傑です!’(なんの??)
評論とか批評に興味ある人は、面白いかもしれませんね。
ではいざ。
※ ちなみに前回はこれ。
3 ツイッターとラジオ放送
「詩の礫」と「想像ラジオ」は、ツイッターという共通のメディアを基盤にしていた。そして、それはラジオ番組にきわめて近い形で利用されていた。ある意味で、ツイッターはラジオの性質の幾つかを引き継ぐメディアであるのかもしれない。
まず共通性としては、それが緊急事態下で情報を得るために有用であったことだった。ラジオは、災害時の非常用持ち出し袋に入れておくべき品物として、いつも欠かさず挙げられるものだ。それはポータブルであるし、スイッチをひねって電波さえキャッチできれば、すぐに情報が入手できる。そしてツイッターも、緊急時の連絡手段としての強靭さが今回証明された。電話回線やメールなどが軒並みアクセス不能になってしまっても、ツイッターは生きていて、人々の間の緊急連絡のベースを提供していた。身に帯びておける携帯やスマホ一つあって、電波が届きさえすれば、楽に情報の流れに接続することができるのだった。
また、プラットフォームとして潜在的に融通無碍であるという点で、ラジオとツイッターは共通している。ラジオは現在、放送局を開設するには国の認可が必要だが、潜在的には、無線技術さえあれば、誰にでも放送が可能だ。そこでは、個人間の交信から、ニュース、イベントの中継など様々な内容も発信できる。ツイッターも、テキストを土台とした個人の放送局でありそこではニュース、世間話、実況中継、詩の連投、恋人同士の語らいなど、使い手によって様々な通信ができる。
(ツイッターから派生した、音声と動画を無料発信できるツイキャスというサービスもある)
「詩の礫」も「想像ラジオ」も、複数の声で語られるだけではなく、詩、ドキュメント、ニュースの言葉、私信、日記、回想、議論、など色々な方向性を持った言葉が投げ入れられるプラットフォームとしての作品となっていた。「詩の礫」「想像ラジオ」と名付けられた作品の枠組みは、ツイッターのような、様々な声を浮かべることのできるプラットフォームとしての性質を有していたといえる。そして、その様々な声が入っていることによって特異な作品として成立している。このことは、作品を作品として閉じることを許さずに常に変転していく事故後の状況や、作品を成立させている根本にある他者たちの声が、絶えず作品に飛び込み、それを開いていくことを要請していることにも関わっているかもしれない。
さらに、ツイッターとラジオのどちらも自己と他者、内部と外部の間を攪乱するという性質がある。どういうことだろうか。吉見俊哉が「声の資本主義」の中で指摘するように、聴覚とは、本来、遠隔的な触覚ともいえるべきもので、受け手が存在する同じ空間の延長にある物質が発した音波が振動として伝わってくるものだ。けれどラジオの場合、音の発生源である存在と、聴き手の間の空間は分離されている。つまり音の発生源として存在すべき対象が、空間の中に存在していないのである。
このためラジオの音声は奇妙な浮遊感を持ち、聴き手との一体感を生む。テレビだったら映像が見えているので、声や音の持ち主も、画面の中の一点に集約することができる。だがラジオの音は空中を漂う。例えば、横になって枕元にラジオを置いて聞いている時など、まるでその声がどこからともなく、自分の頭の内側から聞こえてくるような錯覚に陥らないだろうか。声の主の存在は、空気中に拡散し、まさにon airされるのである。それによって、空間が何者かの声に満ちているような、あるいは視聴者の内部から声が聞こえてくるような錯覚が生まれる。
これは、死というものの生み出す事態に近いだろう。生きている間は、その人の存在を、私たちはその人の身体の内側にあるものとして想定している。しかし死んでしまうと、その人の存在は、身体の内側には無くなってしまう。特定できなくなった存在は、空間に遍在することになる。例えば詩人の高村光太郎が、1930年代に妻の死後「あなたは万物となって私に満ちる」と書いたような、あるいは2003年に発表されてしばらくブームになった流行歌「千の風になって」に歌われる、光、鳥、星、風になって「あなたを見守る」死者のイメージが想起されよう。実際に「想像ラジオ」では、こうした死との親和性が、ラジオ放送というモチーフを呼び出していると思われる。大量の人々がいっぺんに行方不明になってしまった震災直後、大気中は、見えなくなってしまった不在の死者の声に満ち溢れていた。その声をなんとか聞き取ろうと耳を傾ける姿勢が、空中を飛び交う放送電波をキャッチするラジオのモチーフへと繋がったのだろう。
それでは、ツイッターはどうであったか。基本的に、ユーザーはツイートを視覚でとらえる。しかし、そこにあるのは身体像ではなく文字像である。その文字列は、声と書き言葉の中間にあるような存在様態をしている。それは確かに書かれた文字であるが、声の特徴をも併せ持っている。ツイートで期待されるのは、通常の作文のように順序立てて物事を述べることではなく、頭に浮かんだことをそのまま即座に呟くように出力することである。また一回投稿したツイートは、2018年2月現在の仕様では、後から修正することは出来ないようになっている。(削除することは可能だが。)この点は、一度言ったことは、その事実を取り消せない話し言葉と同じである。
「声の文化と文字の文化」でオングは声の文化の特徴を幾つか挙げているが、その中で以下の項目はツイッターにも当てはまる。まず、それが「勇敢な兵士」「10月26日の栄えある革命」などの言語表現の紋切り型、つまり消え去ってしまう話言葉を支えるクリシェを使うこと、闘技的力学を持つこと、さらに話された言語の意味は身振りや、その場のコンテクストなど現実の状況からしか生まれないことを挙げている。これらの特徴は、ツイッターにも該当するだろう。そこでは、決まり文句が頻繁に用いられ、しばしば議論が巻き起こり、呟かれた言葉の意味は、前後の文脈や顔文字に補われることが多い。もちろんツイッターの文章は、書き言葉として文字制限の中で効果的に伝えるために、投稿する前に文章を推敲し、凝縮し、洗練させることもできる。こうした点からは、それは書き言葉と声による言葉の特徴を組み合わせて、進化させたバージョンといえるかもしれない。
ツイッターのタイムラインにおいて、声の主の視覚像は提示されないが、アイコンは提示されており、ユーザーは頭の中でそのアイコンから想起される漠然とした身体性をイメージしながら、呟きを読む。それは、身体から切り離された声のバリエーションの一つなのである。このため紙に印刷された文字列や、インターネットの通常の記事の文章を見るよりも、これらの文字は活き活きと生気を充填されていて、生命の徴を帯びているように知覚されると思われる。これはインターフェースが通常のネット画面よりも、よく動くことにも関連しているだろう。ユーザーは流れてくる呟きのタイムラインを、(スマートフォンの場合は)指でスライドしながら読んでいく。画面を自分が読む速さにあわせてたぐりあげ、また時には再読するためにたぐりさげながら読む。つまり自分の身体のペースに合わせて、ツイートの流れを再生するのだが、ある意味でそれは演奏にも近い。特に文字列が詩である場合は、それを読む速度を適宜早くしたり、遅くしたりすることでその時々の自分の身体にあったリズムで体験することができる。「詩の礫」が書籍化された時に、紙に印刷された文字として読んでみると、思いがけず幾つかの言葉からインパクトが失われていた、と城戸朱理などが指摘しているが、それは「礫」がオンラインで読むとき独特の身体性を前提にして書かれたものだったことも理由の一つかもしれない。「さっきまで、とても重たかったここの場所(ツイッター)。羽根が生えたみたいに軽くなった。」と、和合の「詩の礫」にも、時折ツイッター使用時の身体感覚が呟かれていた。ツイッターがしばしば中毒性を持つのは、こうしたインターフェイスと自分の身体が一体化してしまう感覚にも理由があるだろう。それは内部と外部の境界を侵食する技術なのである。他者の声は、自分の身体に浸透し、一般化するものとして感得される。DJアークの「想像ラジオ」に対する次のような説明は、その原型となったツイッターのことを言っているようにも感じられる。
さて、ここで最新のお手紙です。お手紙って言っていいのかな。メッセージって言うべきか。ともかく僕が仰ぎ見てる白い闇に文字が揺れてて、同時に書いた人の声も響いてくる。僕はその他人の声をなぞって自分の声を出すんです。それがいまや僕の言っているメールであり、お便りなんですね。
スクリーンの「白い闇」に文字が流れてきて、書いた人の声も、そのアイコンと名前から想像される。その他人のメッセージを、自分のタイムライン上で動かし、なぞって読む。この一節の背景には、やはりツイッター的な言葉の存在感が想起されているようにも思われる。
このように見てくると、緊急時に情報を得る手段としての有用性と共に、自己と他者の境界を曖昧にして、声と身体を切り離して、様々な声を大気中にon airするという側面で、ラジオ、そしてそれを引き継ぐような特徴を持つツイッターは、震災後のカタストロフィ状態と親和性があったことが分かる。「詩の礫」「想像ラジオ」に見てきた時空間では、自己と他者の境目が曖昧になり、身体を離れた死者の声が大気に満ちていた。
加えて、3月11日以降の複合災害の場合は、和合のいう「放射能という幽霊の肉体」も空間に重なってくる。それは目に見えず、音も匂いもしないうちに、空間に蔓延している、まさに「幽霊」的なものだ。いとうせいこうも、柄谷行人との対談で「このラジオはレディオアクティヴィティ(放射能)の意味なんじゃないかとも思った。」と聞かれ「もちろん、その二つの意味があります。」と答えている。こうして現実が全面的に、内と外の区別がつかない遍在的な状況にある中で、ツイッターという、ラジオとしてのソーシャルメディアは、それ独自の電波を空間に満ちわたらせ、もう一つの遍在空間を作り出している。それはカタストロフィの遍在性に対抗する遍在性であり、そこに震災後において、ラジオ的な性質を有した表現方法が出現した必然性があるのではないかと思われるのである。
4 比喩が死んでしまった世界で
どうして、カタストロフィ後に言葉が色褪せてしまったのか。その状況は、「詩の礫」の中で和合が呟いた、「こんなことってあるのか。比喩が死んでしまった」ということに集約されるかもしれない。
「比喩が死んでしまう」とは、どういうことだろうか。一つには、城戸が指摘しているようにスマートフォンや携帯電話が普及していたことによって、津波が押し寄せ、人や家を呑み込んでいく映像がオンラインで広がっていたことだ。映像に媒介されているとはいえ、その衝撃を、繰り返し、半ば直接的に多数の人々が味わったことになる。こうした直接性の前では言葉は力を失わざるを得ない。
また、「比喩が死ぬ」とは、あるものが他のものとの繋がりを持てなくなってしまうことでもあるだろう。例えば、「綿のような雲」という。この時、「綿」と「雲」は共通性を持った存在として繋がってくる。だが、日常世界の事物連関が崩壊してしまった世界では、綿はもう綿でしかなく、雲はもう雲でしかない。そのもの以外では有り得なくなってしまう。地震や津波によって、ひっくり返された皿や自動車、その他多くの人間の事物が、日常で使われる道具としての意味を失って、物質性に還元されてしまったように。このことは、人間でも同じだろう。ある人物はその人物でしかなくなり、ある人の世界はその人の世界でしかなくなり、他の誰かの世界との関わりを失ってしまう。「詩の礫」の中で、たびたび詩人が自我の「牢獄」について言及しているのもこのためだろう。
震災後ほど、個々がそれぞれの運命ともいうべき、それぞれの進む道をバラバラに進んでいくことがあからさまになったことはないだろう。生きた者、この世を去った者、被災した故郷を心配して、一躍バイクを飛ばす者、子どもを連れて西へと逃げる者、外国のテレビで日本の状況を知る者…、年齢、家族構成、居住地、職業によって、まったく違う現実への対応があった。被災地においてさえ、原発からの距離ごとに、避難や補償の有無が異なっていた。それぞれが他人とはまったく別の存在であることを突き付けられる状況である。その時、他人と自分の関係性が蒸発してしまう。他者と自分がどのように関わっているのかを、うまく言い表せなくなってしまう。
「比喩が死んでしまった」状態にある時、淡々と事実を伝えるニュース以外の言説は、色褪せてみえた。その出来不出来に関わらず、詰まるところは、それが比喩だったからだろう。現実の事物を言葉で代替させて表象するという、言葉の機能が全面的に失調していたのだと思われる。状況について語られる言説の多くが、「今ここにある世界」とはまったく無関係に感ぜられたのは、そうしたわけだろう。
こうした状況下で書かれた「詩の礫」と「想像ラジオ」は、何よりもまず、破断されてしまった関係性を取り戻そうとして書かれたのかもしれない。「礫」に見られる、「大切なあなた」へと向けられた言葉「あなたは私です。私はあなたです」も、比喩を可能にするような根源的な他者との繋がりを回復しようとして呟かれたところがあるだろう。「想像ラジオ」にも、冒頭の箇所でリスナーが、DJアークを喋らせているのは自分と、他の無数のリスナーだと発言していることは先に見た。それから、二つの作品は様々な他者へと繋がっていく。恋人、妻、子ども、祖父や祖母、そして名前も知らない他の者達や、リスナーへと。その様子はバラバラの瓦礫になってしまった関係性を呼び込むプラットフォームを用意するようでもある。
その際に、土台として使われていたのがツイッターである。ソーシャルメディアは、その欠点についても批判が向けられているものだが、やはりその可能性は大きいといわざるを得ない。特に、分断された時間の中で、アマチュア無線のように、一人ひとりが自分の放送局を立ち上げて、アンテナを伸ばして電波を飛ばし、暗闇の中に散在している他の人々と交信できる意味合いは大きいだろう。
そのことがネットに接続できる環境さえあれば簡単に行えるのである。確かに、ワールドワイドウェブによって、「今ここ」という感覚は希薄になる。アメリカのコールセンターの仕事がフィリピンで行われ、日本からカスタマーサービスにかけた電話が実は中国の大連で取られるなどは、インターネットがなければ可能にならなかった。カタストロフィ後に、あからさまなものとして顕著に露呈したものの、現代において、もちろん震災前から関係性の分断は進んでいた。
ビジネスは国境を超えて広がり、国民国家の自明性は揺らいでいる。伝統的な共同体は力を失いつつあり、人々のアトム化はますます進んでいる。20世紀初頭から本格化したこのプロセスが、インターネットによって加速していることを否定するのは難しそうだ。だがよくいわれているように、インターネットは新たな繋がりも用意してくれる。ワールドワイドウェブが世界の均質化をもたらしてしまうのではないかという意見はよく聞かれるが、特にソーシャルメディアは、その特質からして従来のメディアよりは、違いを違いのままに保存する可能性は大きい。テレビや新聞は基本的に放送局から視聴者への一方向だ。
同じニュース内容や価値観の含まれた番組を、大勢の人間が一度に受け取る。平均化の度合いが高い。だがツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアでは、タイムラインを個々人が編集できる。どのようなニュースソースを選択するのも自由である。海外の発信者をフォローしてもいいし、大手メディアも、市井の民間人である友人知人の報告も、同じ価値を持ったものとしてタイムラインに並んでくることになる。ある出来事が起こった時に、それぞれが見るタイムラインは、その人ごとに独自のものになるだろう。
こうした情報の編集が、ともすれば、自分の好む情報ばかりをフォローすることになり、特に政治思想が先鋭化するという危険な側面も確かにあるだろう。しかし課題は多くあるにせよ、人々がそれに多くの時間を費やしてしまうような魅惑や利点があることも確かだ。
かつて文学が果たしてきた役割の一つも、ソーシャルメディアが代替しているところもある。文学作品を読みたくなる理由の一つには、それが自分以外の人が生きている世界を見せてくれることがあるだろう。当たり前だが、私たちは自分以外の人生を生きることはできない。他の人がどのように世界を体験し、何を感じて何を考えているのかを知ることは不可能だ。そうしたことが文学に手を伸ばす一つの原動力にはなっていただろう。
けれど、こうした欲望は今、ソーシャルメディアがより簡単に、大規模に、叶えてくれてしまう。フェイスブックを開けば、タイムラインには友人知人その他の人々の投稿が溢れている。行った場所、見たもの、食べたものが写真や動画で共有されている。日記もあれば、社会問題についての真剣な意見もある。生きる上での実践的な知恵やマインドセット…いわゆる「ライフハック」記事も流通している。友人の友人も、知らない人も、世界中の人間の生きている日々を垣間見ることができる。しかも書籍と違って、その本人には、多くの場合取ろうと思えば実際にコンタクトを取ることができるのだ。メッセージを一通送りさえすれば、オフラインの現実にも繋がっていくのである。本は心の友達とはいうが、ソーシャルメディアでは投稿主と本当に友達になれる可能性も開けている。グーグル翻訳も使えば、地球の真裏に住んでいる人とでさえ意見を交換することができる。
そして、直接的に触れられる身の回りの現実以外のもの、間接的に耳にしたり読んだりする事物が縁遠く感じられてしまう破局後の世界観にも、ソーシャルメディアでの関係性はマッチしているように思われる。テレビや雑誌などに掲載されている言葉は、大抵私たちとは直接面識のない、その人と成りや生活を知らない、遠く隔たった者達の言葉である。世界性が瓦礫となってしまった時間では、彼らの言葉は遠すぎて現実感を失われている。だが、ソーシャルメディアでは、基本的には直接に繋がっている、半径1㎞以内の身近な人々、直接に対面したことはなくても潜在的にはメッセージ一つでコンタクトできる人々の言葉が出発点となるからだ。もちろん、友達の友達をたどっていけば、新聞などで発言していた任意の人と繋がる可能性もある。なんといっても、2016年2月にフェイスブックが発表した調査によれば、フェイスブックでは、4.57人のリンクを経由すれば世界中の全ユーザーが繋がるというのだから。しかし、この足元から広がっていく地続きの世界観は、従来のメディアのそれとはだいぶ違う。こうしたプラットフォームが魅力的でないわけがない。多くの人が空き時間をソーシャルメディアに費やすのは仕方ないことだろう。
しかし、こうした「オンライン」の言葉が隆盛を極めているだけに、「オフライン」の言葉の重要性もまた、見直されるかもしれない。文学も、その「オフライン」の言葉の一つである。
「オフライン」の言葉にしか出来ないものは何か。オフラインだからといって、そこで語られる言葉が世界から完璧に隔絶されているわけではない。かつてインターテクスチャリティが語られたように、書物は他の書物と結び付き、参照し合っている。かといって、そこにリアルタイムはない。出来し続ける出来事が飛び込み続けてくるオンラインのタイムラインとは違って、書物は時間的な意味では、個別の切り離された時間を確保できている。そこで、作者のつむぎ出す時間だけに、どっぷりと身を浸すことができる。その時、深さが生まれる。文字が五感を喚起し、読むものを作品世界の中に置く。時に読者は、登場人物の内面に深く潜り込んで、悲しみ、怒り、喜びなどの感情のカタルシスを味わう。こうしたことはソーシャルメディアではなかなか難しい。また、何といってもオンラインでは、実際に生きている、現在起こっている出来事に触れることが主流である。一方オフラインの作品世界では、私たちは過去や未来の、現在に存在していない世界に立ち会うことができる。「詩の礫」や「想像ラジオ」のように死者の声や、はるか隔たった他者の声へも耳を澄ますことができる。
そういう意味では「詩の礫」や「想像ラジオ」はオンラインの言葉から始まりながら、オフラインの言葉の特徴も兼ね備えていた。その点で、通常の文学作品の枠からは、はみ出した作品である。こうした作品が生まれたのは、やはり震災直後の特殊な時間性によるところが大きいのだろうか。しかし、従来の共同体の枠組みが綻びをみせ、逆にナショナリズムや移民排斥などの反動が生まれながらも、アトム化した個人が浮遊する、この状況がますます加速する現在の、瓦礫化と再編成の時間においては、これからもこのような作品が生まれてくる余地はあるかもしれない。
オフラインの文学の営みがこれからも続くとしたら、それはどのように遍在性に応じていけるのだろうか。